無色の闇

「命の挿花」の続き的な話で、この話から「籠ノ鴉-カゴノトリ-」に繋がる流れ。細かい部分の食い違いはご愛嬌。


 目が覚めた。
 でも、どこを見ても、何色と表現できない色。
 今自分は目を開けているのか、それとも閉じているのか。どっちだろう。
 意識をすれば、まばたきをしている感覚はある。
 でも、何も見えない。
 これは夢かな。まだ寝てる?
 重くて動きの鈍い身体で、ゆっくりと腕を動かしてみた。
 自分の顔の前に手をかざしても、自分の手は見えなかった。
 手探りであちこち触っていると、ベッドの上で横になっているのが分かった。
 だんだんと思考が冴えてくるのと反比例するように、不安と恐怖が重く心にのしかかる。
「目が覚めたか」
 突然の声に身体が飛び跳ねた。反射的に声がした方に身構えたけど、この何も見えない世界で、自分以外に誰かがいる事に少しだけ安心した。
「……」
 何を言おうとしたのか自分でも分からないけど、すっかり乾いた喉からは声が出なかった。
「目はどうした?」
 また声をかけられて、ぴくりと身体が揺れた。それを知りたいのはこっちなんだけど。
 でも、目の事を訊かれたのだから、きっと自分の目に何かあったんだというのは察しがついた。
 ゆっくりと首を横に振ると、少し離れた場所から舌打ちが聞こえた。その後、ひそひそと話し声が広がる。
 何人か、いるらしい。
「やはり駄目か」
 大きなため息混じりに言われて、この状態はとても良くない事だと分かった。
「残念だよ、Ⅸ籠」
 諦めを含んで冷たく言い放たれたその言葉が、痛覚として認識するほど心に刺さった。
 
 
 
 怖い。
 とても怖くて仕方が無い。
 Ⅸ籠にとって1分1秒の間でもその恐怖心が消える事がなかった。
 手の届く範囲が世界で、触れるものが全てでしかなかった。そこから外側は何も分からない。
 閉ざされた視界の代わりに、異常なまでに敏感になった耳は、遠くで囁かれる声を拾うのは容易だった。
 失敗作、出来損ない、欠陥品。
 それはまるで自分の代名詞であるかのように、言われ続けた。
 たまに、すぐそばで怒鳴られて殴られる事もあった。気配を感じて避ければ余計に殴られるから、避ける気も無くなっていった。
 どうしてこうなってしまったのか、よく分からないけれど、この状況は受け入れる以外に選択肢がなかったし、何をどうしていいのか分からなかった。
 自分は目が見えなくなる前に、何をしていたのか覚えていない。自分の名前以外、何も覚えていないのだから。もしかして、最初からこうだったんだろうかと、思えてくる。
 でもその事を、誰にも言えなかったし、誰かに訊けるような状況ではなかった。
 あまりも色濃く深い恐怖は、泣く事をさせてくれなかったし、抵抗する気力も奪っていた。
 
 どれくらいの日が経っただろうか。
 何も見えないⅨ籠には、時間の感覚なんてとっくに薄れていた。長いのか短いのかの判断もできないまま、ベッドの上で時間を過ごしていくのに気が狂いそうだったけど、それすらも鈍ってきていた。自分に浴びせられる罵倒も、手酷い事も、まるでどこか遠くの他人事みたいに感じる。
 あらゆる事が麻痺して何もできない時間を過ごしていた時、ふと誰かが教えてくれた。お前には同じような兄がいる、と。
 その言葉に、Ⅸ籠は昔の事を少しだけ思い出せた気がした。
 そうだった。自分には兄がいるんだった。痛い事しないし、悪口も言わない、そんな優しい兄だった気がする。顔も声も思い出せないけど、感覚だけはしっかりある。兄は今どこにいるんだろう。もしかして目が見えなくなってしまったから、嫌われたんだろうか。
 そんな事を考えながら、時間を過ごすようになった。
 
 いつの日からか、目の奥が痒くなってきた。
 その痒みは少しずつ酷く長く続くようになって、目元から手が離せないくらいになっていた。
 堪えきれないほどの痒みで瞼を引っ掻いていると、ひたひたと足音が近づいてきた。今までの足音とは違う。
「何してんだ」
 大きな声に身が竦む。また殴られるかもしれないと思って顔を伏せた。
「手ぇ、血だらけだぞ」
 少しくぐもった声。規則正しく空気の抜ける音がする。
「…お前、目が見えないのか?」
「……」
 それを知られたら、きっと悪口を言われるんじゃないか。そう考えたら何も言えなくなった。
 とにかくこの場から離れたくて、身体を反転させて立ち上がろうと手を着くと、何も無い空間だった。自分の知りうる範囲よりも外側の世界、つまりベッドの外。
「危ねぇ、落ちるだろ」
 脇腹を支えられているんだと気が付いたのは、数秒くらい後になってからだった。
「怖がらせたか?」
 ゆっくりとベッドの上に戻される。
「悪かった。俺はジャックだ。少し前に隣りの地区の部隊に配属されたから、ここの勝手が分からなくてな」
「……」
「余計なお世話だろうが、無闇に掻くのはやめておけ。自分を傷つけてもいい事ないからな」
 そう言い残して、ひたひたと足音が遠くなっていった。
 
 目の奥の痒みは、視力が回復する兆しだった。
 結局の所、薬や手術なんか必要なかった、という事だった。
 永久少年という存在は、人間が思っている以上に自己回復能力が優れていた。
 Ⅸ籠の目が見えるようになったら、周りの大人たちは急に態度を変えた。今までの悪口も暴力も、まるで最初から無かったかのように一切しなくなった。
 Ⅸ籠にとって、それはとても嬉しかった。でも、怖くて信用も出来なかった。
 目は見えるようになったけれど、明るい所は眩しくて目を開けていられない。その代わり、真っ暗な場所では良く見えた。自分の後ろ側すら見えるかのように感覚が研ぎ澄まされる。それは、目が見えなかった頃ではとても考えられないような優越感にも似た感覚で、とても気分が良かった。
 その後、すっかり体力も回復して戦闘訓練も何の問題も苦もなくこなせるようになった。
 上達するたび、大人たちは褒めてくれる。それが嬉しくて、頑張れた。
 それでもやっぱり深く根を下ろした恐怖心は消えなくて、信用は出来なかった。
 相変わらず、目が見えなくなる前の記憶は思い出せない。だけど、昔の事を訊かれるような事はなかったし、自分からも誰かに言う必要も無いと思って、黙っていた。何より、記憶が無い事を知られたら、怒られるかもしれないという恐怖があった。
 
 それから、Ⅸ籠はクローン隊を束ねるボスに就くことになった。
 クローンではあっても、その戦闘能力の高さは、オリジナルさながらに圧倒的なものだった。
 それを祝ってか、それとも冗談なのか、はたまた皮肉なのか、それは分からなかったけど、ある白衣の大人が欲しい物はあるかと訊いてきた。
 今まで物欲も無く、何かを要求した事も無かったⅨ籠にとって、それは返答に困る問いだった。
 変な事を言ったら怒られるかもと思い、緊張しながら少思考を巡らせていると、ずっと心に残っていた事に辿り着いた。
「…あの、兄さんに会いたいんだけど…」
 Ⅸ籠の精一杯の返事に「ああ、あれか…」と、すっかり忘れていたといった風に白衣の大人は頷いた。「失敗作は処分する所だったが」と小さく呟いたが、その言葉はⅨ籠には聞こえていなかった。
「まあいい。お前にやろう」
 そう言って、白衣の大人は機嫌よく承諾してくれた。
 初めて行く別の地区。先を歩く白衣の大人の背中を見ながら、Ⅸ籠は早足で後を追った。
 兄には随分と会っていないけど、覚えてくれているだろうか。自分が昔の事を覚えてない事は、ちゃんと話して謝ろうと思っていたし、兄に会えば昔の事を思い出せるかもしれないという期待もあった。
 向かう途中、兄は8人いた事、残っているのは6人であること、その内のひとりは稀に暴れるから檻に入っている事を教えてもらった。
 静かに生命維持装置の音が流れる、薄暗い部屋。
 大きな水槽が5つと檻が1つ。そこに入っていたのは…。
 あれ? 兄さんって、こんなだったっけ?
 Ⅸ籠は眉をひそめた。
 とても人とは思えない形をした肉の塊や、内臓が無いのもいた。でも、人の形をしてるのもいた。
 疑念と違和感はあったけれど、自分とよく似たその姿は、間違いなく兄であると証明するには十分な説得力があった。
「ごめんね。ずっと来れなくて。オレ、昔の事、思い出せなくて…でも、兄さんがいることは思い出せたんだよ?」
 分厚いガラス越しにそう声をかけると、兄たちは黙ったままだった。どうやら怒ってはいないらしい。
 よかったと、Ⅸ籠は安心した。
 兄たちと過ごすようになって、Ⅸ籠は笑うようになった。
 静かな部屋での、一方的な会話。それに何の疑問も感じず、楽しく幸せな気持ちだった。
 そんな幸せな日々がいくつか過ぎて、Ⅸ籠は組織の上層部から重要な任務を言い渡された。
 “【本物】の兄を始末しろ”
 それと共に、一番目の兄の前に存在する【本物】の兄は、弟たちを見捨てて【外】にいると教えてもらった。
 見捨てられたという事が、酷く悲しかった。それと同時に、怒りがこみ上げた。
 それともうひとつ、失明の原因もその【本物】の兄のせいである事も。
 寒気がした。あんなに恐ろしい思いで過ごす原因になった者に対して、恨み以外の感情なんて無い。
 必ず殺してやる。
 そう心に決めた。
 
 
 
 
 
終わる

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