竜使いと白いドラゴン7 ~草の医者~
頬を撫でる風がひんやりと冷たく気持ちいい。薄く広がる雲は双子の太陽の輪郭を優しく包んでいる。
サージェイドの背に乗り空を駆けるライエストは、目を凝らして遠くの空を見回していた。
空には鳥の群れや魔物が飛んでいる姿が見える。しかし飛竜の類いはいない。村から離れれば離れるほど、竜種を見かけなくなっている。人間たちも竜について全く知らない地域ばかりで、これではサージェイドの仲間を探すどころではない。全く進展が無いことに、ライエストは少しだけ不安だった。
ふと、魔剣の青年の話を思い出す。
竜たちの体の一部が取引されていること、心臓が不老不死の薬になること、人型の竜が存在すること。
どれも本当の事だ。ただ、一部は正確な情報ではない。噂には歪曲や誇張、脚色が付き物。
ライエストもワイバーンの翼の骨と龍の髭で作った弓を持っている。どちらも村で一緒に住んでいた竜だ。トゥルパ村では竜が死ぬと敬意をもってその死骸をもらっている。…肉は同族喰いになるため、森に還しているが。だから防具や装飾品などに使われているのは間違いないだろう。ライエスト自身も水龍の鱗が装飾品になると水龍を狩りに来た人間に会っている。
次に、不老不死の薬。これはトゥルパ村の言い伝えにもある。毒性の強い洞窟ドラゴンかヒュドラの心臓だ。大昔にその薬を完成させたという人間がいたが、その薬を巡って大きな争いが起き、薬の製造方法の書物は灰に、薬は誰の口にも入ることなく紛失した。その薬が本当に不老不死の効力があったのかどうか、定かではない。
そして最後の、人型の竜。これは言い逃れようもなく、自分たちのことだろう。体は殆ど人間だけど、魔力は竜種と同じだ。ただ、魔力の質は最高で、量は無尽蔵。つまり、魔法を使うなら常に全力で制限なく無限に使えるということになる。でもそれは、魔法が使えれば、の話。人間の体では、竜種の魔力を魔法として発動できないのだ。相棒となる竜を媒介して魔法を使うことも不可能ではないが、扱いが難しく、村では禁止されている。非常時の際に熟練された大人が使うことを許された。普通の人間よりも体が異常に丈夫なくらいで、村の数人くらいが遠くまで目が効いたり些細な予知夢を見たり、魔力を直接使って小さな火を熾せる。その程度でしかない。そういう訳で、上位魔族を屠れるというのは間違いになる。魔族なんて魔物よりもずっとずっと強いし、対話が可能だから話し合いで解決できることの方が多い。一部を除いて、魔族は戦闘狂ではない。
「!」
ライエストは視界の端に急接近してくる影を捉えてサージェイドの真っ白な背を軽くたたく。
「サージェイド、グリフォンだ!」
向かってくる影は、上半身と翼が鷲で下半身がライオンの中型魔物だった。
今日の飯が決まったと、ライエストは心の中で喜んで弓を構えた。
矢を引き狙いを定めるも、グリフォンは狙われているのを理解しているらしく右へ左へと変則的に飛び回り、襲い掛かるタイミングを伺っている。サージェイドはライエストが狙いやすいようにグリフォンの周りを大きく旋回し始めた。
グリフォンの首に向かって矢を射るも、動き回るグリフォンの首を通り過ぎ後ろ足に刺さった。
ギャアと大声で鳴いて、グリフォンは高く上昇した後、急降下してきた。
ライエストは2本目の矢を構えようとしたが、グリフォンの接近が予想よりも速く、慌てて体を逸らしたが間に合わず。グリフォンの前足の爪に頭を引っ掻かれた。
「クァ!」
ゴゴっと、嫌な音がした。頭蓋骨にまで爪が当たったんだと分かり、血の気が引く。
頭の帯布が頭から外れて空の放り出されたのを咄嗟に掴んで、傷口を押さえた。
「いってぇ…」
痛みに呻くが、すぐに息を整える。危なかった。サージェイドが方向を変えてくれたお陰で、目を奪われずに済んだ。
心配そうにクルルと喉を鳴らすサージェイドに大丈夫だと伝えて、サージェイドの背に仰向けになった。両足の裏で弓を支える、右手で傷口を押さえたまま、左手で矢を引き絞る。
ライエストに攻撃が当たったことに勢いを付けたグリフォンは、今度こそと、真っ直ぐに向かって来ていた。
放った矢はグリフォンの首を貫き、グリフォンは藻掻きながら落ちていった。
「はーーー…」
ライエストは体の力を抜いて、長く息を吐いた。
食うためには殺さなきゃいけないし、殺すためには殺される覚悟が必要だ。命の食い合いは死ぬまで続く。
サージェイドはグリフォンが落ちた川原へ向かう。グリフォンは落ちた時に岩に頭を打ち付けたらしく、絶命していた。
川原に足を付けると、サージェイドはすぐさま頭を擦り寄せてきた。
「ありがとな。目に当たらなかったのはサージェイドのお陰だ」
「クゥ、クゥ」
「え? あー、大丈夫だって。これくらいの怪我、たまにやってるし。明日には治るから」
そう、たまにやっている。それは自分が未熟だから、歯痒く感じる。怪我の方はと言うと、自分の体の頑丈さと回復の早さは村の大人たちが舌を巻くほどのものだから問題ない。
「クゥゥ…」
「ん? 痛いのは痛いぞ。でも、痛いのってさ、裏を返せば生きてるってことじゃん。痛くない体になったら、それはきっと、もう自分の体じゃないと思うんだよな」
サージェイドの頭を優しく撫でようと伸ばした手が真っ赤に染まっているのに気づいて、手を引っ込めた。ズキズキと痛む頭を押さえながら苦笑い。
すぐ近くに川があってよかった。川の水で頭の血を洗い流して、帯布を頭に巻き直す。火を熾そうと振り返ると、サージェイドが木の枝を何本か咥えて持ってきてくれた。
綺麗になった手でサージェイドの頭を優しく撫でる。集めた枝に火を点けて、グリフォンを見る。頭を押さえていた手を離すと、布越しに染み出た血が手に付いていた。血が足りなくなる前に、食べて寝てしまいたい。
グリフォンの血の匂いに誘われて、肉食獣たちが遠巻きに様子を見ている。どうせサージェイドと2人で食べきれないから、残った分はこの周辺の生き物に譲ろうと思っていた。
小さいナイフでグリフォンを捌く。こんなに大きい相手を狩れたのは久しぶりだった。サージェイドには、一番美味いこの辺りの肉を…。
「キャーーーーー!!」
川原一帯に響く叫び声。顔を上げて見回すと、髪の短い片眼鏡をかけた女が立っていた。
女はわなわなと体を震わせ、手に持っていた草の入った袋を手から落とす。
「貴方…それは…」
「……」
ライエストは硬直した。まさか人間が近くにいたとは気づかなかった。人間は魔物を食べない…魔剣の青年の言葉を思い出す。
どうしたものかと、そろりそろりとグリフォンから離れた。
「動かないで!!」
女は言うが早いか、物凄い勢いで駆け寄って来た。その表情は鬼気迫るものがある。
「把握しました。貴方は、たまたまここへ牛を連れて歩いていた。そこにどういう事情か分かりませんが、空から魔物が落ちてきて、貴方に当たった。途方に暮れているところに獣たちが集まってきてしまって立ち往生していた、と」
「ん?」
ライエストは顔を顰めた。早口だったため、上手く聞き取れなかった。
「その血の量…頭に深い創傷がありますね!?」
「あ、あぁ…」
ライエストは思い出したように傷口に手を近づける。
「むやみに触ってはいけません!!」
「っ…」
またも怒鳴りつけられて、ライエストはびくりと手を止めた。
「…診せなさい」
「え?」
「診せなさい」
もう一度、ただし今度はもっと強い口調で。
「私は怪しい者ではありません。ナティローズと申します。ナティで結構です。私は医者です。…正確にはまだ医者ではありませんが、未来の医者です」
「はぁ…」
あまりに突然で、ライエストは生返事を返すのが精一杯だった。
「私の事は分かりましたね? 医者なので、貴方の怪我の治療をします」
じりりと詰め寄るナティローズと名乗った女。伸ばされた手が頭の帯布に向かっていると知ると、ライエストは後退った。
傷を診られることになってしまったら頭を探られる。角を見られる訳にはいかない。それ以前に、何か…怖い。
「何故、逃げるのです? 痛い思いをしているのでしょう? 治療し完治すれば痛みは無くなります」
じりりと詰め寄られ、その度に後退り。互いの距離は一定のまま移動する2人。そんな2人を首を傾げて見詰めるサージェイド。
「さぁ、診せなさい」
「いや…ダメだけど」
「診せなさい。致命傷です」
「このままでも治るから…」
「それほどの大怪我を自然治癒に任せるのは大変危険です。失血死。運よく生き延びても感染症になるリスクがあります」
「ほんと、大丈夫だし」
「怪我人を目の前にして放って置くわけにはいきません。医者である以上、どんな手を使ってでも治療します。私は見返りなど求めません。これはただの善意です」
がしっ。そんな音が聞こえるくらい、強く肩を掴まれた。とても女性のものとは思えない力で。
「では参りましょう。すぐ近くに私の研究小屋があります」
次の瞬間には腕を掴まれて、ぐいぐいと引っ張られる。
「いいって! いいってば! 俺のことは放っておいて!」
抵抗するも、ずりずりと引っ張られていく。
サージェイドが楽しそうにぴょこぴょこと軽い足取りで後をついてくる。
「サージェイド、違う! 俺は遊んでるんじゃない。緊急事態だぞ!」
「クァ! クァ!」
サージェイドの鼻先でつんつんと背中を押されながら、昼下がりの川原で強制連行。
遠巻きにうろついていた獣たちは、主導権を握っていたライエストが居なくなったと知ると、我先にとグリフォンに食らい付く。
俺も食べたかったなぁと、怨めしい目で遠くなっていくその光景を眺めた。
川原から少し離れた草原に、ぽつんと丸太小屋があった。
「どうぞ、お入りください」
ナティローズは言いながら、有無を言わさずライエストを家の中へ引きずり込んだ。
丸太小屋の中は目を見張るほどの多種多様の草。ガラス瓶に詰めたもの、壁に干してあるもの、半開きの鍋の中にも草の類いが見える。それらの草のせいで、爽やかさとちょっと刺激のある青臭い香りが充満していた。
引きずられた先のベッドに無理矢理うつ伏せに転がされて、ナティローズは再び頭の帯布に手を伸ばしてきた。
ライエストはその手を掴んで頭から遠ざけた。
「頼むから…触るな…!」
低い声で、半分は脅すつもりで言った。
「そこまで頑なになるのは、どういう理由ですか? 死にたいのですか?」
ナティローズは表情を変えず、静かに問う。
「そういう訳じゃない。誰だって嫌なこっあーッ!」
理由を聞かれたから答えようとしたのに、最後まで言わせてもらえなかった。ナティローズにもう片方の手で素早く頭の帯布を取り上げられた。
「酷い…」
咄嗟に両手で角を隠す。
「あなたの意思は分かりました。私はその意思を尊重します」
「俺の気持ち、分かった…?」
「はい。死にたいわけではない。それが分かれば十分です。治療します」
あ、これ、話が通じない人だ…と、ライエストは戦慄した。この手のタイプは思い込みが激しく、人の話を聞いているようで聞いていないか都合のいいように解釈する。
角を隠したまま起き上がろうとすると、すかさず押さえつけられた。
「血色が悪いです。悲報ですが、輸血用の血を切らしています。絶対安静を徹底してください」
「いやぁ…その…」
何とか言い訳をしてこの場から逃げ出そうと考えを巡らせる。血の足りない頭は難しい思考を阻害して、何も思いつかない。
ナティローズは手際よく何かの準備をしている。
「いてっ」
自分の腕が死角になって見えなかったが、腕に小さく深い痛みを感じた。何をされたのか分からず、恐る恐るナティローズの顔を伺う。
ナティローズはただ静かにライエストの顔を見ていた。
「どうやら、普通のものでは、貴方には効力が無いようですね。もっと強力なものにしてみましょう」
再び腕がちくりと痛む。正体不明の痛みは、強い痛みよりも恐怖を覚える。数秒もせず、痛みのあった腕がじりじり痺れて力が入らなくなった。それは徐々に全身に広がり、頭がぼんやりとする。
不安と恐怖と不満。そういう気持ちで睨むようにナティローズを見上げると。ナティローズはう~んと首を傾げていた。
「俺に、何…したんだ…?」
「麻酔です。おかしいですね。まだ意識があるとは。仕方ありません、このまま施術に入ります。死ぬほど痛いかもしれませんが、死を回避するためです。我慢してください」
力の入らない手なんて、あっさりと角から離された。混血だなんて知られたら絶対殺される。
「…なるほど、把握しました」
ナティローズは静かに、悟ったように呟いた。
「貴方は魔族ですね」
「え?」
「魔族は血縁関係を尊びますが、それ以上に上下関係には厳しい。こんな小さな角では、さぞ辛い目に遭ってきたのでしょう。奴隷のように扱き使われ、意味のない虐待を受け、多くの罵詈雑言を浴びせられ、命からがら逃げだしたのですね」
「いや、違うけど…」
「安心なさい。医療の前では全ての生き物はみな等しく治療を受ける権利があります。貴方の出生や身分など関係ありません。それに…」
雄弁に語るナティローズの話を、ライエストは遠く冷めたように聞いていた。その言葉、混血の相手にも言えるのか。とはいえ、ナティローズが勘違いしてくれたことは助かった。このまま、魔族の端くれの振りをしよう。
「私は過去に魔族も治療をしたことがあります。安心してください」
ナティローズはピンセットに曲がった針を挟んで近づく。何それ、何に使うの…と言おうと口を開いた瞬間。
「いてぇ!!」
頭にじくっとした痛み。その後もじくりじくりと頭の痛みは続く。
「痛い痛い! やめろ、痛い!」
「死ぬよりはマシです」
「やだやめて、ほんと痛いからっ! いだだッ!」
何とか全身に力を込めて、必死に抵抗する。
「動かないで。手元が狂って適正ではない箇所を縫ってしまいます」
どすっと背中に肘鉄をお見舞いされた。息が詰まって、がふっと咽る。こちらの様子などお構いなしに乱暴な処置は続く。
「ギャアァッ!!」
あまりの痛さに堪え切れず、人間の喉からは絶対出ない竜の声を出してしまった。俺ってこんな鳴き声だったんだ…と、思考の片隅で思う。恥ずかしくて顔が熱くなった。トゥルパ村では生まれた産声は竜の声だ。物心つくまでは時々その声を出すが、言葉を覚えれば鳴くことは無くなる。こんな声を出してるのを村の皆に知られたら、絶対に笑われる。
苦痛に本能が警鐘を鳴らす。痛みの元凶に牙を突き立て爪で引き裂きたい衝動を必死で抑える。楽になりたい本能と人間を傷付けたくない理性が鬩ぎ合って頭が混乱する。このまま本能に任せてしまえば、きっとこの動かない体も動かせるはずなのに。
「あなたは大人しいですね。この大型魔物用の麻酔が少しは効いているのでしょうけど。この麻酔が無かった時に治療をした魔物は私を敵視して、噛み付いたり引っ掻かれました。それは酷い暴れようでした」
いや、それ、今俺もやりたくなってる…と、痛覚に呻きながら思う。両手で口を押えても、一度出てしまったその後は耐えることを忘れてしまい、何度か甲高い鳴き声で叫んでしまった。
…やがて。
「完璧です」
あまり感情が読み取れないナティローズの声に、達成感が含まれていた。
するすると頭に包帯を巻かれて、ナティローズが離れていくのが分かると肺の底から息を吐いた。痛いのを治すのに、どうしてもっと痛い目に遭わされなければいけないのか。
「…ガァ…」
ライエストはナティローズに向けて文句を言ったつもりだった。…が、出たのは低い鳴き声だった。これはダメだ。体が落ち着くまで、もう黙っていよう。
「麻酔が完全に抜けるまで数日かかるかもしれません。貴方に使った麻酔は初めて使用したので。眠ったほうがいいですね」
がすっ。首筋に手刀が振り下ろされる。
何でこんなに乱暴されてるんだろう俺…と、沈む意識の中で思った。
体が重い。指先は少し動くくらいで、握れるほどの力までは出せず。まだ開くのを拒否する目蓋を諦めて、ラエストは耳を澄ました。
ぐつぐつと煮沸の音がする。かさかさと…多分、草の擦れる音。もう慣れてしまったけど、青臭い草の香りがする。あー、そうだ。よく分からないけど酷い目に遭わされたんだった。身の毛の弥立つ恐ろしい記憶が蘇って体が竦む。
頭の怪我の痛みは完全に無くなっていた。乱暴混じりの治療は、確かに意味があったらしい。乱暴な部分は無くても良かった気がするが。
ようやく目を開けると、ランプの火に照らされたナティローズの横顔が見えた。机に向かい、真剣な面持ちで草を潰している。瓶に詰めたり、瓶に詰まった草を取り出して混ぜたり、煮立った鍋に草を入れたり。ひとつ何かをすればその度に羽ペンを手に持ち、紙の上にペン先を滑らせていく。
正直、この人間に会わなければ必要以上に血を失わなかっただろうし、傷の痛みは残っただろうけど体はいつも通りに動かせたはずだ。けれど、言動はめちゃくちゃだけど、ナティローズからは至って真剣で直向きに治療をして助けたいという純粋な精神が感じられた。それはとても高尚なもので。…心に溢れる誠意と良心に乱暴が添えられてしまっているのが玉に瑕だが。
力の入らない体に鞭打って身を起こそうとすると、ナティローズがこちらに気付いた。
「目が覚めましたか。まだ無理に動かないほうがいいです」
「…サージェイドは…?」
「貴方の牛のことですね。蝶々を追いかけて遊んでいたり、貴方に寄り添うように外の壁にくっついて寝ていましたよ」
ライエストはサージェイドの状況を知って安心した。
「薬を作ったので、飲んでください」
「……」
差し出されたカップを見て、ライエストは絶句した。
これでもかというほど神経を逆撫で不快にさせる色、なにものも近づかせんと放つ異臭。この世が何故こんなものの存在を許したのか疑いたくなる、おぞましい何かだった。
「まだ体が動かないでしょう。飲ませてあげます。口を開けてください」
開けるはずがない。これは断固拒否しなければならない。痛いのとは違う意味で命が危ない。
口を噤んで顔を背ける。これが今の自分に出来る限界なわけで、この治療に熱心な人間の前では何の抵抗にもならなかった。
しっかりと頭を固定され、あっさりと口をこじ開けられる。ここまで開けられてしまったら、入り込んできた指を牙で噛んでしまわないように力を加減するしかなかった。
想像通り…いや、それ以上の地獄だった。表現ができない、筆舌に尽くし難い、完全に思考を停止させられる。いっそ気を失ったほうが楽になれるやつだ。
ナティローズはぐったりと沈黙したライエストを見て満足気に頷くと、再び机に向かって草を弄り始めた。
ライエストはその様子を薄く開いた横目で眺める。あんなに様々な草を潰して、何をしているのか。
「その草…」
見覚えのある草を摘まんでいるのを見て、ライエストは呟いた。
「これですか? 最近調べ始めたばかりの草です」
ナティローズは草をもって近づいて来た。
「その草、俺の村では磨り潰したやつを頭に乗せるんだ、熱が出た時に。冷たいから気持ちいいぞ。熱が酷い時は煮汁を冷まして飲む。味は変だけど」
「本当ですか? …なるほど、解熱効果があるのですね」
ナティローズの感情に乏しい表情が明るくなる。
「他に、知っているのはありますか?」
いそいそと草を並べて見せてくる。
「それと、これ。こっちは怪我した時に葉を貼っておくと血が固まるのが早くなる。そっちは茎を噛んでると腹痛が治る。でも葉っぱは舌が痛くなるから気を付けたほうがいいぞ」
ライエストの話に、ナティローズは流れるように羽ペンを動かしていく。
「貴方の故郷では薬学に明るいんですか?」
「さぁ? 大人たちが教えてくれたんだ。んー…この中で、他の草は知らないな」
「ありがとうございます。私の研究が大きく飛躍できました。1種類の草の効果を調べるのに数か月…長くて数年はかかってしまうんです。貴方を助けたはずが…助けられたのは私の方ですね」
羽ペンを走らせ終わり、その紙を宝物のように大切に両手で包む。
「私はどんな怪我や病気も治せると信じています。今はまだ治せない病気も、いつか必ず…。それが私の夢であり、医者の務めです」
薄く微笑むナティローズの笑顔は、強い意志を秘めていた。
「そういえば、貴方の名前を聞いていませんでしたね。改めて自己紹介します。私はナティローズです。ナティと呼んでいただいて構いません」
「俺はライエストだ。……あの、さ。ナティ」
ライエストは遠慮がちにナティローズに声を掛ける。ナティローズが医者であるのなら、病気に詳しいのなら。
「その…人が別の生き物になる病気って、知ってるか?」
竜返り。トゥルパ村にある不治の病。もしこれを治す方法を知っていれば。
「別の生き物…ですか。具体的にはどのような状態ですか?」
「あー…」
ライエストは呻いた。人間の姿をした竜の混血がある日突然竜の体になる…なんて、口が裂けても言えない。
「ええと…。人間でいえば…。猿…かな…」
ちょっと違う気がするが、それ以外に思い付かなかった。
「先天性であれば、猿のように毛深い人や尻尾のようなものが生えている人は極稀にいますが、病気ではありません。生まれながらのものです。他の生き物になるというのは…そうですね、人狼に噛まれると人狼になることがあると聞いたことがあります。吸血鬼に噛まれると吸血鬼にされてしまいます。魔物や魔族が仲間を増やす行為なので、病気ではなく呪いです。残念ながら、医学では呪いは解けません」
「そっか…」
ライエストは目を伏せた。
「貴方の求める回答ができず、申し訳ありません」
「あ、いや、いいんだ。ちょっと聞いてみたかっただけだし」
慌てて笑顔を向ける。ただの冗談話にしてくれればいい。
「もしかしたら、貴方が求める回答は書庫の国にあるかもしれません」
「書庫の国…!」
その国の名前を聞いて、ライエストは目を大きくした。バーシルが昔話していた、世界中の様々な知識の本を集めた国があると。
「ええ。ここからですと、南の方角になります。いくつか国を通過しなければいけない遠い場所ですが」
「南か。分かった。ありがとな!」
「お役に立てて光栄です」
お礼を言うと、ナティローズは柔らかな笑顔を浮かべた。
太陽が昇る前に目が覚めたライエストは、ベッドから起き上がった。ぎゅっと手を握る。もう体はいつも通りに動くし、痛みも不調も無い。頭の包帯をとって、巻き慣れた帯布を巻く。
机を見ると、ナティローズは机の上に伏せ、小さな寝息を立てて眠っていた。ここに来て3日間、ナティローズが夜明けまでずっと草を調べていたのを知っている。ここまで頑張る彼女は、本当にすごいと思う。
毛布をナティローズの背中に掛けて、草ばかりの部屋の中を見回す。瓶に入った乾燥した草に、見せられなかったけど知っている草がいくつか見つかった。羽ペンと紙を拝借して、草の効果を書く。へろへろした文字になってしまったが、文字は合ってるはず。小さい頃、大人たちにさんざん教え込まれたのが役に立った。そして紙の最後には“世話になった、ありがとう”と書き綴る。
「きっと、いい医者になれるぞ」
そう囁いて、丸太小屋を出た。
つづく