死の傷跡
cult of the lamb(カルトオブザラム)の捏造話。
ナリンデルが他の兄弟を負傷させた時のお話。
それは5柱が集まる、いつも通りの定例会のはずだった。
何がかも分からない微かな違和感を最近感じていたものの、その正体が分からず些細なことだろうと思っていた。
しかし。
いつもと変わらぬシャムラの神殿。神殿のあちらこちらにかかる蜘蛛の糸は、複雑に絡み合って光を反射している。
そこでカラマールが見たのは、想像もつかない、有り得ない光景だった。
「シャムラ…?」
口に出た言葉は震えていた。
気を失って倒れていたのは兄のシャムラだった。
その頭は誰もが崇め敬う叡智の源が露わになっており、それを覆っていた頭蓋骨をナリンデルが手に持っていた。
「来たか。カラマール」
ナリンデルは真っ赤な三つ目をカラマールへと向けて、薄く微笑む。頭蓋骨を握り潰すと、払うように投げ捨てる。
カラマールは硬直し、息を呑んだ。
“死”
それを司る彼のことを昔から敬遠していたが、その理由が恐怖だったことを改めて認識した。
そして最近の違和感の正体が、彼の異変だったことも。
彼はシャムラとよく一緒にいた。シャムラもナリンデルをとても可愛がり、自ら知識の一端を教えていた。
その2人が距離を置き始めたのはここ最近の事だった。それと時期を同じくしてナリンデルから向けられる視線が冷えたものになったのも。
ナリンデルから悪戯されることがしばしばあったものだからさして気にしていなかったが、その視線の冷たさは自分だけでなく他の兄弟たちにも向けられているようだった。レーシィに相談されるまでは気付かなかったが。
ナリンデルの目に映っていたのは、兄弟から別の何かに変わっていた。
「ナリンデ…」
「何をしている!」
カラマールの言葉を遮って、清水のように澄んだ美しい声が響き、ヘケトが走って来た。
「ナリンデル、貴様、最近様子がおかしいと思ったら…!!」
来るなり状況を把握したヘケトは、ナリンデルに掴み掛かった。
激昂で顔を顰めるヘケトとは正反対に、ナリンデルは穏やかな表情で目を細める。
漆黒の一閃。ナリンデルの赤き王冠が大鎌となってヘケトの喉を切り裂く。
あまりに突然に、何の躊躇いも無く。
「うぐっ…」
ヘケトが呻き、膝をついた。げほげほと苦しみながら喉を押さえ、その場に蹲った。
「……」
カラマールは呆然と立ち尽くした。恐怖が根を張り足が動かなくなる。
「カラマールよ」
名を呼ばれて身が強張った。赤い三つ目が、三日月のような形で見つめてくる。
「貴様は、目だ」
その言葉が、次に自分が奪われるものだと察した。この傲慢な獣は昔からそうだ。先に何をするかを解らせて、行き過ぎた悪戯をしてくる。この状況を思えば、今までの悪戯がどんなに稚い事だったか。
“死”が軽い足取りで近づいてくる。赤き王冠が形を変え、大鎌となる。
わざとらしく、ゆっくりとした動きで。
カラマールは本能的な反射で身を退く。空を切る音は顔の左を縦に長く通過し目蓋を掠めて行った。
「ひぃッ!」
悲鳴をあげて、両手で目を隠す。
「目は…目だけはやめてくれぇ!」
「そうか」
ナリンデルは、あっさりと願いを聞き入れてくれた。でもそれは優しさでも慈悲でもなく、この獣の気紛れであることを長年の経験から知っていた。
「臆病者」
ただ一言、冷たい言葉を浴びせられ、嘲笑われた。
そんなこと、知っている。それを面白がられて悪戯されていたのも。それでも、今まではこんな笑い方はしなかった。
“死”の高笑いが、神殿に響く。
その残響と共に曇った音が2つ。左右それぞれに。
耳を切り落とされたのだと気づいたのは、痛みと耳鳴りがしてからだった。
「遅れてしまって、すみません」
背後から、レーシィの声がいつもより小さく聞こえた。レーシィからは自分が陰になってこの惨状が見えていないはず。
警告をしようと顔を上げたが、目の前にはすでにナリンデルの姿は無く。
振り返ると、会釈をする末弟の前に獣は立っていた。
「ナリンデル兄上、ご壮健で…えっ。わああっ!!」
脈打つ痛みと耳鳴りがする耳は、末弟の叫び声を小さく捉えた。
痛みと恐怖で歪む視界で“死”が去って行くのを見た。
「うぅ…目が熱い…痛い…。ナリンデル兄上、何があったのですか!?」
ヒル族の末弟は腕が無いせいで状況を探れず、その場で立ち往生している。獣に何をされたのかも分かっていないようだった。
「レーシィ…」
血の止まらない両耳を押さえながら、何も知らずに目を奪われた末弟の名を呼ぶ。
「…カラマール兄上? どこにいますか? ご無事ですか!? 今、ナリンデル兄上がいて…姉上と、シャムラ兄上はいますか!? ごめんなさい、目が見えなくて…助けに行きたいのに…」
レーシィは我が身よりも兄弟たちを心配していた。
その健気さがカラマールの心に刺さる。本当なら、目を失うのは自分のはずだったのに。
「レーシィ、すまない…」
自責の念に苛まれて出た謝罪は、罪悪感に押し潰されて震えたか細い声へと変わる。狼狽えているレーシィには届かなかった。
ヘケトがよろめきながら立ち上がり、レーシィを抱きしめる。
「レ…ジ…ィ」
くぐもり掠れた声。初めて聞いたその声が、あの美しい声のヘケトのものである事が信じられなかった。
「だ、誰…だ? 放せ…!」
相手がヘケトだと分からないレーシィは、抱きしめる腕から逃げようとする。
「レーシィ、落ち着け。それはヘケトだ」
そう伝えると、レーシィは動きを止めて、様子を伺い始めた。
「姉上…? そのお声は…」
「ヘケトはナリンデルに喉を切られたのだ。シャムラは頭蓋骨を割られた。お前は目を切られた」
声が出せないヘケトに代わり、状況を話す。他の兄弟に比べて自分の被害はあまりに小さいもので言えなかった。
「ナリンデル兄上が? どうして…」
レーシィの呟きに、その疑問こそ早く知るべきだったと思い出し、シャムラの方を見る。
いつの間にかシャムラは意識が戻ったようで、石床の上に座り込んでいた。焦点の合わない目は虚ろで、小さく独り言を言っている。耳を切られたのも相まって、この距離からはその内容は全く聞こえない。
カラマールはシャムラへ近づき、肩を揺する。
「シャムラ、何があったのだ!?」
揺すり始めて数秒後、兄と目が合った。…ような気がしただけだった。
「我は…、…不変は…、彼が…」
視線をふらふらと泳がせ、繋がらない言葉を淡々と並べる。
「ど、どうした…?」
いつもとは明らかに様子がおかしい兄に、寒気がした。
それから。
4人で力を合わせ、元凶である“死”を冥界の門へ封じ込めることに成功した。
末弟は、緑の王冠の力で周囲の気配を把握できるようになった。けれど、その目に光が届くことは無く、他の者たちの表情が分からないせいで感情を読み取るのに必死になる様子が伺えた。
妹は、黄の王冠の力で声を出せるようになった。けれど、喉から出るのは低く濁った声だった。凄みのある声になって威厳が出たと妹は言っていたが、ひとりのときに声を殺して泣き崩れていた。
兄は、紫の王冠の力で自我を取り戻した。けれど、正気ではなかった。話しかけても返答は上の空で、会話が成り立たないことも多々あった。時々には元の兄に戻るが、ほんの束の間だけだった。
自分は周囲の物音に過敏になっていた。聞こえが悪くなってしまった耳は青の王冠の力で補うのは容易だったが、ここに居るはずのない“死”の高笑いをいつまでも響かせていた。
負わされた傷はあらゆる治療を施しても癒えることなく、命の赤はじわりじわりと体から流れ出る。
それはまるで、遥か遠くに封じた“死”へと近づいていく感覚だった。