闇界

Ⅸ籠と刺斬のお話。


 昏い夕刻。
 毒素を含んだ大気は、沈みかける太陽の光で濁った血のような色に染まっていた。
 崩れた高層ビル群の隙間、底が見えないほど深い亀裂が入ったアスファルトの上を、Ⅸ籠は軽い足取りで歩いていた。
 途中まではギ・ターレン・カルクスで飛んで来たけれど、あの巨体を待機させておける場所がこの先に無いことを知っている。傾いたビルを薙ぎ倒して停まらせられなくもないが、この地をこれ以上破壊するようなことはしたくなかった。
 そこかしこに残る大型の機械や崩れたビルから突き出た鉄骨は、風化して殆ど原型を失っている。時々吹き抜ける風が、獣の唸り声のような音を立てて過ぎ去っていった。
 ここはかつて、世界の頂点にまで昇り詰めた工業国家であり、最先端の科学技術、最高の経済力、最強の軍事力を有していた。
 けれど今は、静かで誰も居ない、滅んだ国。それでもⅨ籠にとっては無下にできない場所だった。自分が生まれた国だから。
 本当はひとりでここに来たかった。けれどそれが許されるわけなく、後方には刺斬が付いて来ている。見失わない程度に距離をおいて付いて行くということで、お互いの譲歩となった。
 
 刻々と景色は色を変え、暗くなっていく。それに合わせるように、Ⅸ籠の右目は世界を正確に捉えるようになる。
 夜はいい。世界が明瞭に見える。昔、人は夜になると何も見えなくなると教えてもらった。だから暗闇を恐れるということも。そう教わっていたが、夜になると見えなくなるという感覚がⅨ籠には分からなかった。
 その代わり、目を閉じることには少し恐怖を感じるときがあるし、視界を塞がれるのは何よりも大嫌いだった。それと似たようなものかなと勝手に想像している。
 Ⅸ籠は、暗くなっていく世界と相反するように、普段は立てることの無い足音をわざと大きくして、歩みの速度を落としていった。
 刺斬は鎖よりも耳が利くと言っていた。視界が悪くてもある程度は音で周囲を視ることができる、と。だから、足音を立ててゆっくり進めば刺斬は迷わないはず。
 倒れた巨大な高層ビルのすぐ近くに差し掛かり、Ⅸ籠は不意に飛び退いた。
「っ…!」
 心臓が高鳴って身構えそうになった。割れたガラスに映った自分の顔を、あいつと見間違った。気の昂ぶった身体を抑えるように息を吐く。
 昔は、あいつの顔を見ると安心したりもした。
 でも、今は…。
 
 自分の顔が嫌いになったのも、あいつのせいだった。部屋に自分の姿が映るようなものは置かないし、鏡のある場所も避けていた。
 自分はあいつのクローンだから、同じ顔なのは当然だと分かっている。オリジナルとして、兄として、存在しているあいつのことが、憎たらしいのに大好きで、様々な感情がよく分からない錯覚を起こしてしまう。それが嫌で、自分の顔に傷をつけたことがあった。周りからの騒がれようが大事になって、上から怒られた。その時の顔の傷はとても深かったのに、もう跡形もなく消えている。少しくらい傷痕が残ってくれたほうが、よかったのに。
 
 倒れた巨大な高層ビルを通り過ぎるころには、辺りはすっかり暗闇に包まれていた。一切の光を許さない暗黒の世界は、この右目にとても鮮明に映る。研ぎ澄まされる感覚は、鋭利に、精密に。拡がる意識は、万物を掌握できるような、この闇そのものが自分の一部のような。
 刺斬にはもうとっくに見えない世界になっているかもしれない。そう思った矢先、後方の離れた所からゴツとぶつかる音がして「…ってぇ」と小さな呻き声が聞こえた。
 Ⅸ籠は足を止めた。これ以上進むのは、刺斬には難しいだろう。この先は、更に崩壊が酷く、瓦礫の丘をいくつか登ることになる。
 ここから、あと5キロメートル進んだ先にある建物が、自分が造られた研究施設だった。
 そこまで行くつもりだったが、行ったところで研究に使っていたであろう機材の残骸しかない。執着するような私物があるわけでもないし、感傷に浸れる思い出があるわけでもない。
 自分の気持ちと刺斬を秤に掛ければ、自ずと刺斬に傾く。
「刺斬」
 振り返って呼ぶと、遠くから「はい」と聞こえた。
 Ⅸ籠は早足に通ってきた道を戻る。刺斬のすぐ前まで来ても、刺斬にはⅨ籠の姿が見えていないらしく、反応が無い。刺斬はいつも付けているヘッドフォンを外していた。その様子から、聴力だけを頼りに足場の悪い道をここまで付いて来たんだと知れた。こんな芸当ができるのは、刺斬だからなんだろうとⅨ籠は思った。
「戻るぞ」
「…っと。ボス、そこに居ます?」
 再び声をかけると、刺斬は驚いて身体を揺らした。
「暗視鏡、持ってこなかったのか?」
「あれ、嫌いなんで」
「そんなんで歩けるのか? 転ぶぞ」
「はははっ。ま、何とかなります」
 刺斬は笑いながら、小型の懐中電灯を取り出した。暗闇に、ぽつりと明かりが灯り、転がっているコンクリート片を照らし出す。それと同時に、刺斬の張っていた気が緩む気配がした。
 急な光の刺激に、Ⅸ籠はぎゅっと目を閉じた。この広大な闇の世界に、その光は今にも呑まれそうで、頼りないものに見える。こんなものでも人は安心するんだなと、何の気なしに思った。
 Ⅸ籠は、そんなもの持っているならもっと早く使えばよかったのにと言おうとしてやめた。きっと、ひとりで来たかったという自分の我侭に、刺斬は気遣ってくれて極力存在を感じさせないようにしていたんだろう。
「散歩はもういいんですか?」
「ん。付き合せて悪かった」
「お気遣いなく」
 刺斬は穏やかな表情で言った。
「ボス、足音立てていましたね。お陰で見失わずにすみました。鎖さんなら、この暗さでも少しは見えるかもしれませんが、俺は全く見えません。お気遣いいただいて感謝です」
「……」
 Ⅸ籠はどう応えればいいのか分からずに、口を噤んだ。刺斬は優しい笑顔のままだった。
 その様子を見流して、Ⅸ籠は歩き始めた。
 戻る道のりは、来るときよりも少しだけ速く進む。出生の地の滅び様を見回しながら、記憶に残っている景色と重ね合わせていた。
 電波塔が根元から折れて大きく傾いているのが遠くに見える。あそこは、兄と行ったことがある。遊び半分で研究員の目を盗んで施設を抜け出して、最後はあそこで捕まった。その時に、兄も自分も全く同じ服装をしていて、研究員は見分けが付かず、自分は暫くの間アーミィと兄の名で呼ばれていた。兄は勘違いしている研究員も困惑する自分のことも、面白がって高みの見物を決め込んでいた。
 Ⅸ籠は、少し後ろを歩く刺斬に顔を向ける。
「刺斬は、オレだって分かる?」
「へ?」
 刺斬が疑問符を浮かべて、目を大きくする。
「オレとあいつのこと、見間違わないか?」
「あいつ? …ああ…」
 刺斬はⅨ籠の言葉足らずの話から、何を言っているのか察したようだった。
「はは、そうスね。目の色しか違いが無いんで、目の色まで変装されたら、難しいかもしれません。こんな暗がりでは、見分けはできないでしょうね。…っと」
 話しながら、刺斬がアスファルトの亀裂に足をとられて傾いた身体のバランスをとる。
「でも俺も鎖さんも、ボスがどういう行動するか分かってるんで、間違うことはないですよ」
「何だそれ」
「クロウさんはクロウさんってことです。人を見分けるのは、見た目だけじゃないんスよ」
「ふうん…」
 Ⅸ籠は、よく分からないまま相槌を打つ。
 そういうものなんだろうかと、半信半疑だった。
 けれど、もやもやとした気持ちは軽くなっていることに気が付いて、自然と微笑んだ。
 
 
 
 
 
終わる


ある町の買い物

殺伐としていないアーミィとⅨ籠が書きたかっただけのお話。


 アーミィは薄雲のかかった空を見上げて、今日は雨が降らないだろうと確信した。
 人口の多いこの町は、生活物資の豊かで活気がある貴重な町。
 そんな町並みを歩いていると。
 聞き覚えのある声がして、アーミィは声のする方に目をやる。視線の先にあった姿を見て、俄かには信じられずに思わず三度見した。
 菓子の露店の前で、子供がせわしなく商品を選んでいる。黒いヘルメットを被っていなかったが、どう見てもⅨ籠だった。
「それ6個欲しい。あっちのも。あと、これ12個…」
 あれもこれもと、嬉々とした様子で菓子を指さして選んでいる。他の客は唖然とした様子で遠巻きに見ていた。
「坊や、こんなに買うのかい? お小遣いは足りるのかい?」
 店員が心配そうにⅨ籠に声をかける。その両手に持っているカゴには、菓子がいっぱい入っている上、足元にもすでに菓子の詰まったカゴが2つ置かれていた。
「金のことは気にするな。いくらでも払う」
「そうかい?」
「あとオレ、子供じゃない」
「そ、そうかい…」
 困惑した表情の店員には目もくれず、Ⅸ籠は菓子を選び続けていた。
 悪目立ちしているのは明白で、アーミィは兄として注意しなければいけない義務感が湧くほどだった。Ⅸ籠からしたら、もう兄だと思ってくれてないかもしれないけれど。
 Ⅸ籠が戦闘態勢に入る可能性はゼロではないが、日中であればⅨ籠を押さえられる自信があった。
 そっとⅨ籠に近づく。隣に立っても全く気付かない。いつもは気配を消していてもすぐにこちらを察知するのに。それほど菓子に夢中らしい。
 アーミィはⅨ籠の肩をぽんぽんと叩いた。
「そんなに買うのか?」
「いいだろ、別に……え? はぁ!?」
 Ⅸ籠に三度見された。そしてⅨ籠が驚愕の表情のまま2メートルほど飛び退く。咄嗟に腰の刀に手を伸ばしたが、ここで騒ぎを起こすことを躊躇ったようで、手をゆっくりと戻した。
「おい…。どうしてここにいるんだよ!」
 半眼で睨むⅨ籠。
「何か、目立ってたから…つい…」
 アーミィは他意なく素直に答えると、Ⅸ籠は周囲をちらりと見やって肩を竦めた。周囲からの奇異の視線の意味は分かったようだった。
「もういい。早く会計して」
 Ⅸ籠は口早に言いながら、店員にカードを押し付ける。店員は頷いて精算所へ走っていった。周囲の野次馬は、Ⅸ籠の異常な大量買いが終わったと分かるとそれぞれに去っていった。
 アーミィは一瞬だけ見えたカードに書かれていた名前が”八咫烏”だったので、Ⅸ籠のものに間違いないことに少なからず安心した。Ⅸ籠の本名でなくても、その名で通っているのは知っている。
「……」
「……」
 2人の間に沈黙が流れる。気まずい空気でお互いに目を合わせられなかった。
 暫くしたあと、Ⅸ籠が口を開いた。
「…あっち行けよ…」
 そう言われ、アーミィはこれ以上ここに居てもⅨ籠の反感をこうむることになりそうだと思い、振り返ろうとした。…が。
「ほら、半分は兄ちゃんが持ってやれ」
 声がして、アーミィは目の前に差し出された大きな袋2つを反射的に受け取ってしまった。袋の向こう側の店員はにんまりとした笑顔を浮かべている。アーミィを一緒に来た兄弟だと思ったようだった。そうじゃないけど、間違ってない。
「こんなに買って、大丈夫かい? 気をつけて帰りな? 喧嘩しないで、兄弟仲良く分けるんだよ?」
 店員が残りの袋とカードをⅨ籠に渡して、アーミィとⅨ籠の頭をそれぞれ撫でた。目の前の兄弟が殺しあう仲だとは夢にも思っていないだろう。
「……」
「……」
 再び気まずい空気に包まれ、アーミィは唇を噛み、Ⅸ籠は引きつった表情になった。2人はどちらからともなく、そそくさと店から離れた。
 
 
 町の大通りから、1本曲がった少し細い道を歩く。大通りほどではないものの、ここも多くの人が行き来している。
 アーミィはどこへ向かうのか分からないまま、Ⅸ籠に行き先を合わせていた。両手に提げた菓子が詰まった大きな袋を、Ⅸ籠に渡すに渡せない状態だった。なにせ、Ⅸ籠も同じように大きな袋を両手に提げている。
「こんなに買って…。どうやって持って帰るか、考えなかったのか?」
「お前に関係ない。ここじゃなかったらその首斬ってるところだ」
 アーミィの問いに、Ⅸ籠が敵意を露わにして声を大きくする。しかし、両手に提げた菓子袋のせいで凄味は皆無だった。
「あの2人は来てないの?」
 アーミィはⅨ籠の部下を思い浮かべながら訊いた。Ⅸ籠は滅びた工業国家の生物兵器として扱われている。簡単にひとりで出歩けるような身分じゃないことは知っていた。部下の目を盗んで出てきたのは容易に想像がつく。大量に買い込んだ菓子から推測されることがいくつか思い浮かんだが、どれも他愛のない子供思考のものだと分かって、アーミィは考えるのをやめた。
「今日は、…その…」
 と、Ⅸ籠は言いかけて口を閉ざし、代わりに「今日、オレがここに来たこと誰にも言うなよ?」と話を続けた。
「言わないよ。僕が危険を冒してまで組織に密告できるわけないだろ? ギガデリやグラビティに言っても「殺されなくてよかったな」で終わるよ」
 アーミィはゆっくり頷きなが答えると、Ⅸ籠はそれもそうかと納得したようだった。こくりこくりと数回頷くⅨ籠の仕草が、昔のⅨ籠と変っていないことにアーミィは少しだけ安心した。
「Ⅸ籠、団子好きだったよね? この町の東通りの店で売ってるよ。今日は手一杯だから、次に来たときに買いなよ」
「…あぁ、そ。……ありがと…」
 Ⅸ籠は顔を伏せてぼそりと小さく呟いて、ちらりとアーミィを見上げた。そして間を置かずして、はっと顔を上げた。
「いや! そうじゃなくて!」
 声を張り上げて、アーミィとの間合いを取って対峙する。
「…こいつを殺せばオレは…。今は命令されてないし…、だけど…」
 Ⅸ籠は身構えて険しい表情でぼそぼそと独りごちたあと、人が変ったようにころりと態度を変えた。薄い笑顔を浮かべる。
「今日はいいや。戦うのはまた今度。兄さんのことは好きだけど、オレはオレにならなきゃいけないし、本物になりたいから殺したい。会えたのは嬉しいけど、憎いし許せない。今すぐ殺したいけど、兄さんになら殺されてもいいし」
 支離滅裂な発言を穏やかに流暢に語る。何の陰りも無いその様子に、アーミィは薄ら寒い違和感を感じた。そのどれもが本心からの本音なのは分かるものの、どれが核心の本性なのかまでは分からなかった。Ⅸ籠はⅨ籠のはずなのに。
「次に会った時は・・・」
 Ⅸ籠は上機嫌で呟きながら、風のように走り出した。
 アーミィは慌てて手に持った菓子の袋を挙げる。
「Ⅸ籠、これ!」
「いらない、あげる。持って帰るの面倒になった! どうせお前、半分野宿暮らししてるんだろ? それ持ってけよ。鎖はお菓子が好きだから、鎖のオリジナルもお菓子好きだと思うけど?」
 にやりと意地悪い笑顔を浮かべるⅨ籠。アーミィはありがとと礼を言うと、Ⅸ籠は一瞬だけ複雑な表情を見せた後、はにかんだ笑顔になった。
 そして振り返ることなく、呆然と立ち尽くすアーミィを置いて走り去って行った。
 
 
 
 
 
終わる


再会の距離

アーミィとⅨ籠のお話。
鴉ノ籠のお話の後あたりに位置する内容かもしれない。


 細かな毒砂の風が頬を撫でる。
 崩れたビルが点在するこの誰もいない廃れた街を選んだ理由は特に無いけれど、場所で言えばお互いに有利でも不利でもないとアーミィは考えていた。
 ただ、時間で言えば悪条件なのは自分だけで、その理由は夜だからだった。でも、それでもいいと思っていた。
 暫くの間、アーミィは視界の悪い暗い世界を進み、指定の場所に着いた。
 霞んだ三日月の光の下、公園だった広場にある水の無い円形の噴水の縁に腰をかけている黒い後姿が見える。アーミィは十分に辺りを注意しながら広場に足を踏み入れた。他の者の気配が無いと分かると、少しだけ気が緩んだ。
 アーミィは深く息を吐いた。数年間、ずっと離れていた弟との再会。背の低かった弟は、あの頃と違って背丈も体格も同じくらいになっている。
 1対1で会いたい、こちらの用件が済めば後は自由にしていい。という条件。本当に応じてくれるとは思っていなかった。罠を仕掛けてるだろうと覚悟していたけど、そんな様子も無さそうだった。
 憎まれていることは知っていたし、今更元通りにできないことも知っている。全て、自分のせいであり、そのせいで大切な弟を傷つけた。
「へぇ…。本当にひとりで来たんだな」
 どう声をかけようか迷っていると、先に声をかけられた。
 Ⅸ籠がゆっくりとこちらへ振り返る。同時に、隠す気のない鋭い殺気を向けられる。
 良く知っているはずの弟の、初めて見る顔。軽蔑するような冷たい目線。そういう顔をされることは十分承知していたけれど、いざ目の前にすると心に爪を立てられた気分になって、声をかけようと薄く開いていた唇を噤んだ。
「よほど余裕なのか、ただのバカなのか…。先に言っておくけど、オレを殺せるなんて期待するなよ?」
 一切の温度を感じさせない口調で、Ⅸ籠が言った。こちらへ身体を向けて座り直すと、目を細めて睨みつけてくる。
 こんな言い方をするようになってしまったのかと、アーミィは昔のⅨ籠とはすっかり変わってしまった様子に喉が引き攣るような息苦しさを覚えた。
「そんなつもりで呼んだんじゃないよ。話がしたかっただけ…」
 アーミィは首を振って答えた。
「Ⅸ籠こそ、ひとりで来てくれたんだね」
「お前がそう条件を付けたんだろう?」
「うん。応じてくれて、ありがとう」
「…何それ…気持ち悪い…」
 あからさまに嫌悪の表情を浮かべて、Ⅸ籠が呟いた。そんな顔をされるのが苦痛に感じて、アーミィはⅨ籠から目を反らせた。あんなに懐いていた弟の変り様に指先が震える。目の前の弟は本当に9番目の弟なのか、疑念すら浮かぶほどだった。
「Ⅸ籠…だよね?」
 不安から思わず声に出してしまって、アーミィは下手したとすぐに気付いた。思った通り、Ⅸ籠は表情を険しくする。
「はぁ? 破棄されたと思ってた? ああ、そうだよね、お前と違って”オレたち”は欠陥兵器だからな」
「違うよ。そういう意味で言ったんじゃない。Ⅸ籠は完全な永久少年だよ。僕と同じ」
Ⅸ籠の卑屈な言い返しに、アーミィはすぐさま否定の言葉をかけた。
「…ねぇ、Ⅸ籠。”オレたち”って、どういうこと?」
 もしかして、10人目が存在するのか。でもその可能性は有り得ない。10人目を造らせないために、逃亡したのだから。可能性としては、処分したと聞かされた8番目までが本当は処分されていなくて、Ⅸ籠がその存在を知ったとしか思えない。
「お前と無駄話するつもりは無い」
 触れられたくないことだったのか、Ⅸ籠が低く強い口調で言った。
「で? 用件は何?」
 と、吐き捨てるように言いながら、Ⅸ籠が立ち上がって近づいてきた。暗闇に透ける様な、黒い姿。凍てつくような視線。
 たった5メートルほどの間合い。その先にいる弟が、とても遠くに思えた。
「ごめんね、Ⅸ籠」
 アーミィは、真剣な眼差しを向けて、ゆっくりとしたひと言を口にした。
 ずっと言いたくても言えなかったことを、やっと言えた。この言葉を、今まで何度心の中で叫んだ事か。
 Ⅸ籠は驚いたように目を見開いた後、すぐに顔を歪めた。
「はぁ? どういうつもり?」
 その声色には疑惑も不満も怒りも混じっていた。
「今日、呼んだのは、Ⅸ籠に謝りたかったからなんだ」
「あははっ、何それ? 命乞いのつもり? そういうの、オレには通用しないよ?」
 首を傾げて冷笑するⅨ籠に、アーミィは唇を噛んだ。これも、こうなるであろうとある程度の予想はしていたけれど、実際に目の当たりにしてしまうと、やりきれない気持ちになった。
「Ⅸ籠…。僕のこと、恨んでるよね」
「それはお前が一番分かってるだろう?」
「屋上に行った時のこと、覚えてる? Ⅸ籠が光に弱い目だったなんて、知らなかったんだ。酷いことしたと思ってる」
「……」
「Ⅸ籠の目の事で、大人たちが話し合ってるのを聞いたんだ。新しいクローンを造るって。新しいのができたらⅨ籠を処分するって言うから、僕はクローンを造らせないように逃げた」
「…嘘だ…。そんな話、信じるわけないだろう?」
「Ⅸ籠が信じたくないなら、それでもいい。でも、僕はその事を謝りたくて、今日会いに来たんだよ」
「黙れッ!」
 Ⅸ籠が急に飛び掛かってきて突き倒す。アーミィはⅨ籠の行動をそのまま受け入れた。最初から受身を取るつもりはなかった。
 硬い石畳に背中を強く打って、肺が呼吸するのを拒んで息が詰まった。
 そんなアーミィに、馬乗りになってⅨ籠が見下ろす。その顔は不服そのものだった。
「…どうして抵抗しない?」
「僕の用件は済んだから。あとはⅨ籠の好きにしていいよ。殺したいなら、そうすればいい」
「お前…何言って…。…ふざけるな!! 今まで尻尾すら掴ませなかったクセに!! 何なんだよッ!!」
 大声を出して、Ⅸ籠は手にしたクナイを振り下ろした。右肩に激痛が走って身体が強張った。
「オレのこと、出来が悪い劣化品だって見限ったんだろ!?」
 堪えるような声で、Ⅸ籠が言った。
「え…」
 アーミィは目を大きくした。そんな事、一度も思ったことがない。一体何を言っているのか。
「お前がいない間、オレはずっと、出来が悪い代用品扱いされて…どんなことされて、どんな思いで過ごしたか…。こんな…謝ったくらいで…! 絶対に…許すもんか…!」
 その話にアーミィは息を呑んだ。Ⅸ籠の様子から、想像していたよりも深刻だと感付いた。でも、Ⅸ籠が出来が悪いなんてことは無い。光に弱い目ではあったけれど、それを補うに十分過ぎる絶対的な支配能力を持っていた。それに9番目にしてやっと成功した永久少年なのだから、厳酷な扱いをされるはずがない。Ⅸ籠は何を言われたんだ。何があった。
「僕はⅨ籠を悪く思ったことなんてないよ!」
「嘘つくんじゃねぇッ!!」
 Ⅸ籠が声を荒げて刀を抜いた。
 アーミィは反射的に身構える。けれど、振り上げた刀が振り下ろされることはなかった。
 Ⅸ籠は振り上げた右手を、自分の左手で押さえていた。
 その時に、アーミィは確かに聞いた。Ⅸ籠がとても小さな声で「兄さんを殺さないで」と呟くのを。
 Ⅸ籠は舌打ちをして刀を石畳に突き刺す。威嚇するような鋭い視線を向けたまま、ゆっくりと立ち上がって身を引いた。
「帰れよ…。今日は、見逃してやるから」
 掠れた声で、Ⅸ籠が言った。
 アーミィは血の流れる右肩を押さえながら立ち上がる。Ⅸ籠の不可解な言動も気になったけれど、それを訊くための言葉が思いつかなかった。
 Ⅸ籠の中で、まだ少し、ほんの少しだけでも、まだ気持ちがあるのなら。
「これだけは信じて。僕はⅨ籠を裏切ったんじゃない。国家を裏切ったんだよ」
 と、そう言うと、Ⅸ籠はぴくりと身体を揺らして目を見開いた。そしてすぐに歯を食いしばった。
「うるさいッ!! さっさと消えろ!!」
 そう叫んでⅨ籠がクナイを投げてきた。左腕を掠めて後ろのコンクリート片に刺ささる。
 何もかも拒絶するような目で見据えてくるⅨ籠に、これ以上はどんな言葉をかけても反感を買うだけだと判断したアーミィは、踵を返して歩き始めた。
 後ろから斬りかかってくるなら、それでもいいと思った。
 しかし、数メートルほど歩いたところで、背中に刺さったのは刀の切っ先ではなく、嗚咽を殺して泣く声。
 それはずっと昔に聞いていた弟の泣き声と、全く同じだった。
「Ⅸ籠…!」
 耐えられなくなって振り返る。
 けれど、そこに弟の姿は無かった。
 
 遠くの空が明るんできた広場に、苦い毒砂の風が通り過ぎていった。
 
 
 
 
 
終わる


いい子

鎖とⅨ籠のお話。


 そもそも、Ⅸ籠の顔なんて、下っ端の連中がはっきりと覚えているはずもなかった。遠巻きに見るのが殆どだったし、Ⅸ籠に近づくと殺されるという悪い噂もあったから、無闇に寄ってくるような物好きもいない。
 単純に、黒いヘルメットに黒いマントの子供という認識でしかなかったから、その2つが無い状態ではⅨ籠だと気付きにくく、ただの子供にしか見えないのは仕方のないことだった。
 至極簡単な理由で、Ⅸ籠だと分かるその2つを、Ⅸ籠が部屋に忘れてきただけだった。
「あんなに慌てて逃げなくてもいいのに。気に入らなかったら殺すけど、痛いのなんて一瞬だし」
 今日はⅨ籠の機嫌が良いようだった。良いといっても、悪い方向にだが。
 鎖は、一緒にいる子供がⅨ籠だと知って血相変えて廊下を走り去っていった隊員を半眼で見送る。廊下を歩いていた隊員が、軽装のⅨ籠を見るなり立ち止まって首を傾げた。それを真似るようにⅨ籠も首を傾げたのだが、隊員はⅨ籠だと知るや否や来た廊下を走り戻って行ったのだった。
 無理も無い。事情を知らなければ、誰が見てもそこら辺にいるような子供の姿。ただ、その眼光の鋭さは、ある程度の者ならすぐに察しがつくであろうものだった。
「ねぇ? 鎖もそう思うだろ?」
 屈託の無い顔で見上げてくるⅨ籠。
「俺には分からねえな」
 鎖は素直に自分の気持ちを言葉にした。Ⅸ籠の考え方は、共感し難いものが多いし、意味不明なこともある。
 死に対して恐怖を感じるのは生き物として当然の事。Ⅸ籠は相手が誰だろうと殺すことに何の迷いも無いのだから、逃げ出したいと思うのは当然だった。
「痛え、痛くねえの問題じゃねえんだよ。気分で殺すなんて考えるなよ? お前だって、死にたくねえだろ?」
 そう言うと、Ⅸ籠は廊下を進みながら不思議そうな表情を浮かべて見上げてきた。
「オレが死んでも代わりはいるって言ってたよ? だから、平気だって」
「は?」
 鎖はⅨ籠の言っている意味がすぐに理解できずに口を開けた。Ⅸ籠の代わりがいるなんて、鎖は初耳だった。大方、上の連中がⅨ籠を煽るために嘘を言ったということだろう。言われた本人は煽られたとは微塵も思ってないだろうし、そのままの意味で受け取ったに違いない。
「あ、でも、永久少年のクローンって造るの大変なんだって。そう言ってたんだ」
「…おい」
「大丈夫だよ。オレ、人間だから薬も飲んでるし、兵器だからメンテナンスしてもらってる。殺されるまではずっと戦えるから。もし死んでも、鎖や刺斬にはオレの代わりがいるから、だから心配しなくていい」
 気懸りなことでもあるのか、訴えるように話すⅨ籠に、鎖はやや気負けした。Ⅸ籠が何かに固執している様子は前々から感じていたが、それが何なのかまでは、鎖には分からなかった。
「そうじゃねえっての…」
 Ⅸ籠の少し後ろを歩きながら、鎖は溜め息交じりに言った。Ⅸ籠と上手く話ができる自信が無い。刺斬は何であんなに話を正確にⅨ籠へ伝えられるのか。
 鎖の晴れない様子に、Ⅸ籠も顔を曇らせた。
「あー、なんつーか…その…」
 鎖は何とか話を好転させようと続けたが、その先が思いつかずに言葉がつかえた。Ⅸ籠は鎖の言葉の続きを待って、真剣な眼差しで顔を向けながら前を歩いていた。
 その時。
 廊下の交差点の左側から、数名の隊員が足早に歩いて現れた。その中のひとりに、Ⅸ籠が身体を掠めた。隊員たちはすぐさまⅨ籠を取り囲む。
「ここは子供が来る所じゃない。早く帰れ!」
 そう言って、隊員のひとりが片手を振り上げる。
 鎖はⅨ籠を殴ろうとして手を挙げた隊員の腕を止めようとしたが、それよりも速く、Ⅸ籠が隊員の顔を片手で掴んで廊下の壁に叩き付けた。
「やめろ!」
 咄嗟に叫んで、鎖はそのまま頭を潰そうとするⅨ籠の腕を掴み上げ隊員から離した。突然のことに状況が飲み込めない隊員たちは立ち竦んでいる。
「よく見ろ、こいつはクロウだ。お前ら、後で説教だからな! 早く行け!」
 逃げるように促すと、隊員たちは全力で走り去っていった。
 鎖は追いかけようと暴れるⅨ籠を何とか壁に押さえつけたが、殺気を帯びた目で睨まれて腕に爪を立てられた。本気のⅨ籠なら一撃目で隊員の頭を潰していただろうし、こんなに簡単に捕まるはずがない。それを思えば、多少なりとも理性は残っていたらしい。
「隊員に手ぇ出すなって言われてるだろ!」
「オレのこと、攻撃しようとした。あいつ敵だ。殺さなきゃ…」
「攻撃じゃねえ! お前のこと心配して、ちょっと小突きたかったんだよ」
「どうしてオレのこと心配するんだ?」
「あいつらは、お前がクロウだと気付かなかったんだよ。普通の子供がここにいたら危ねえだろ。だから注意したんだ」
「……」
 Ⅸ籠は腑に落ちない顔のまま、ゆっくりと力を抜く。それに合わせて、鎖もⅨ籠から手を離した。
「鎖は、すぐ怒る…」
 Ⅸ籠が目を伏せて、小さく呟いた。さっきまでの鋭い凄味は何だったのかと思うくらいの変り様だった。
「怒ってねえよ。お前が知らねえこと教えてんだ」
 しょぼくれたⅨ籠にちょっと同情しつつ、鎖はなるべく穏やかな口調で言った。するとⅨ籠は表情を急に変えた。
「本当に? 怒ってないんだ?」
 Ⅸ籠が目を見開いて心底驚いたような顔をする。
「お、おう…」
 鎖はたじろいだ。まさか、怒られていると思っていたんだろうか。確かに口調が荒いのは自覚しているが、怒っていたわけではない。
「そうか。鎖、怒ってなかったんだ…」
 Ⅸ籠は嬉しそうに独り言をいって、クスクス笑った。
 鎖は、いまいちⅨ籠が何を考えているのかわからないまま、とりあえずは機嫌がよくなったことに安心した。
 そして気が付いた。Ⅸ籠は自分が知っていること、言われたことの中で「いいこと」だけを選んで行動しているのではないだろうか。その知識量があまりに少なく偏ってるせいで、周りには理解しがたい言動になっているのかもしれない。
「お前が知らねえ悪いことやったら注意するからな。んで、お前が知ってて悪いことしたら怒るからな」
「悪いことしないよ。オレ、いい子にしてるし」
 鎖の言葉に、Ⅸ籠は全く悪びれる様子も無く言い返した。
 その自信がどこからくるのか理解に苦しむが、鎖は思い当たった予想がほぼ間違っていなさそうだと確信した。Ⅸ籠の機嫌を損ねるのもよくないと思い、「これからも、いい子でいろよ」と半ば祈るように小さい声で返した。
 
 
 
 
 
終わる


誕生日

Ⅸ籠と刺斬のお話。


 色の無い表情で、Ⅸ籠は部屋の奥にあるキッチンに身体を向けてソファーに座っていた。
 もう何度目になるのか忘れたが、刺斬に呼ばれて渋々とこの部屋に来た。
 Ⅸ籠としては、この部屋に来るのが面倒なわけではなく、長い付き合いであろう刺斬と鎖との距離に、自分の身を置くのが窮屈に感じていた。それでも、呼ばれれば拒絶せずに来るくらいの気持ちはある。2人のことが、嫌いなわけではない。
 狭いキッチンでは、刺斬が忙しそうに動き回っている。右へ左へ動いては、手に取るものを変え、見たことのない道具を使いこなす。その様子をじっと見ているというよりは、他にやることが無かったから、手際よく動く後ろ姿をただぼんやりと眺めていた。
 部屋は甘い香りで満ちていた。
 Ⅸ籠は、この甘い香りは嫌いではなかった。苦い煙の香りと違って喉が痛くならないし、気分も悪くならない。どちらかと言えば、好きかもしれない。
 けれど、昨日からモヤモヤとした気持ちが残っていて、素直に良い香りを楽しめる気分ではなかった。
「刺斬」
 Ⅸ籠は我慢に耐えず声をかけた。
 後ろ姿に声を投げると、動いていた身体を止めて、刺斬が振り返った。
「何でしょう」
「それ、本当に必要な情報か?」
「ええ」
 迷いの無い返事。刺斬が目を細めて笑顔を見せる。
 その後、Ⅸ籠が何も言い返さないのを納得の意とした刺斬は、再び背を向けた。
 Ⅸ籠は納得したから言葉を返さなかったのではなく、刺斬が楽しそうにしているのを邪魔する必要もないと判断してのことだった。自室に戻ろうかと思ったが、刺斬に呼び止められるのが容易に予想がついたから戻る気も失せた。それに、戻ったところでベッドの上で眠れない時間を過ごすか、薬を飲むかくらいしかやることがない。
 テーブルを挟んだ向かい側のソファーで口を開けて寝ている鎖を見て、前に刺斬が「寝る子は育つ」と言っていたのを思い出す。鎖が今よりも育つのかどうか分からないが、自分はこれ以上成長しない身体だから、そのせいで眠れないのかなと勝手な想像をした。
「ボスはご自身の誕生日ご存じではないんですよね?」
 背を向けたまま、刺斬が言った。
 Ⅸ籠は深く息を吐く。モヤモヤした気持ちの原因だった。
 昨日、刺斬に訊かれて、誕生日というものを初めて知った。生まれた日のことをそういうらしいが、Ⅸ籠は自分が生まれた日は知らなかったし、特に興味も無かった。でも「では、明日は誕生日なんで、一緒にお祝いしましょう」と、刺斬に言われた。刺斬と鎖のどちらの誕生日なのか訊く気はなかった。2人で好きなようにやればいいのにと思った。
「昨日も、同じこと訊いただろ」
「一応確認です。疑っているわけではないっスよ」
「知らない」
 口早に答えて、Ⅸ籠は口を噤んだ。自分が生まれた日を知らないのが悪いことのような気がして、奥歯を噛んだ。
「誕生日ってのは、生まれた日を祝うものではなくて、生まれてきた人を祝う日です。1年間無事に生きられたことを祝う日でもあります。旧時代から…」
 長々と続く刺斬の話に、Ⅸ籠は意識を逃がして聞き流した。全く興味が無いし、その知識を得たところで、戦闘の役に立ちそうもない。こちらの様子など背中から分かるはずもなく、聞いていると思い込んでしゃべり続ける刺斬。その後姿を目で追うのも飽きて目を離したころ。
「…実のところ、俺も鎖さんも、自分の誕生日は知りません。なので、俺と鎖さんが初めて会った今日を誕生日にしてます」
 Ⅸ籠はぴくりと身体を揺らして刺斬の背中へ目を向けた。刺斬の話し振りから、てっきり刺斬と鎖は自分たちの生まれた日を知っているものだと思っていた。
 刺斬がゆっくりと振り返る。
「丁度、今日なんですよ」
 喜々とした様子で完成したケーキをⅨ籠の前に置く。中央に苺が敷き詰められたケーキには、金色と緑色と紫色の蝋燭が1本ずつ立てられていた。
「良い偶然だと思いません?」
「何のこと?」
 Ⅸ籠は眉をひそめた。刺斬の話が、自分の思っていたものと少し食い違っているのが雰囲気で分かる。
「今日は、俺と鎖さんが初めて会った日」
 穏やかな笑顔を見せながら、刺斬は弾むような口調で言った。
「そして…俺と鎖さんが、”初めてクロウさんにお会いした日”です」
 
 
 
 
 
終わる


籠ノ鴉-カゴノトリ- 5

これでこのお話は完結になります。


「か…解…り…せ? 何だよそれ」
 刺斬の言った言葉が分からずに、鎖は隣に座る刺斬に聞き返した。
 外出から戻ると、刺斬の部屋のテーブルには見た事の無い本が積まれていた。真剣な顔でその中の一冊を読んでいた刺斬が神妙な顔付きで手招きをするので、それに促されてソファーの隣に腰を下ろして今に至る。
「解離性同一性障害。…俗に言う、多重人格スよ。俺も本読み始めたとこなんで、詳しくは分からないスけど」
 刺斬がタバコの煙を吐く。白い煙が部屋の中に広がって薄らいだころ、溜め息をひとつ。
「多重人格…」
 鎖は小さく呟いた。多重人格については何となく知っている。全然違う性格になるという話は聞いた事がある。俄かには信じられないが、Ⅸ籠が好きな物を嫌いと言ったり、やった事をやってないと言うのは、違う人格と入れ替わっていたせいだと思えば、今までの矛盾した言動も納得できる。
「クロウさんの担当医を調べて聞いてきました。脅して吐かせたら、クロウさんの人格が変わる事、知ってやがったんスよ」
 言いながら刺斬はタバコを灰皿へ押し付けて、本を閉じた。
「いくつか、えらい戦闘能力が高い人格がいるそうです。なので、上はクロウさんを治療する気は無いって結論だそうで。上の連中、強いクロウさんの人格コントロールできればって考えてるらしいです。それで、あの手この手で引っ張り出そうとしてるみたいなんスよ。前に鎖さんとやり合ったクロウさんがその人格か、二番手っぽいスね」
 刺斬の話に、鎖はゆっくりと目を伏せた。
 意図的だったのか偶発的だったのかは分からないが、上の連中はⅨ籠の人格を変えるのに成功したという事か。手に負えなくてこちらに尻拭いさせたという事だろう。こちらがⅨ籠の様子がおかしいと報告したら処罰を変えたというのも、変な疑いを避けるためだったのかもしれない。
「いや、無理だろ…」
 鎖は小さく呟いた。あのⅨ籠はこの世の全てに敵対するように誰彼構わず殺してた。とてもあれが言う事を聞くようになるとは思えない。徒労と損害しか残らないだろう。
 それに、あのⅨ籠は死にたがってる。殺されたくて目につく者を殺してたと思えなくもない。
「あのクロウは、そっとしておいてやったほうがいい。組織のためにも、Ⅸ籠のためにも、な」
 鎖は、死にたがってたⅨ籠の事を刺斬に話さなかったのを少しだけ気にしながら、テーブルに積まれている本を見遣る。
「上の連中、知ってたなら教えろってんだ。今までⅨ籠と話が食い違うから怒鳴っちまってたよ…」
「俺も随分と気が変わる子だと思ってたんスよ。日によって食べ物の好みを変えてるのかと思って、記録してました」
「お前、ほんっとマメだな…」
 鎖は刺斬らしいなと心の中で頷いて、2本目のタバコに火を点ける刺斬を横目で見る。
「…で、治す方法あんのか? 原因とかあんだろ?」
「主な原因は、小さい頃からの極度のストレス、過剰な自己過小評価、恐怖心なんかも…。本読み始めたばかりスけど、治らないものではないみたいスね」
「そういう悩みとは無縁にしか見えねぇぞ、あいつ…」
 鎖はソファーの背もたれに背中を付けて、天井を見上げた。Ⅸ籠にそんな気持ちがあるなんて、とても信じられない。
 上層部からの命令には、顔色変えずに受けているのが実は嫌なのだろうか。
 あんなに戦闘能力が高いのに、自信が無いなんておかしい。
 周りを恐怖させるくらいの存在なのに、何を怖がる必要があるのか。
 と、なると、他に思い当たるとしたら。これはオリジナルを知っているクローンであれば、誰もが思うことではあるけれど。
「赤ヘルの存在が負担になってんのか? 会った事もないってのに?」
「俺は赤ヘルのせいだと思ってます。…って、え? …何スか?」
 刺斬が目を大きくした。開いた口からタバコを落としそうになる。
「鎖さん、何言ってんスか。クロウさんは赤ヘルと仲良かったんスよ?」
「あ? 刺斬こそ何言ってんだ?」
 鎖は眉をひそめた。刺斬が嘘や冗談を言っているようにも見えない。
「ンなわけねぇだろ。前にクロウと話した時に、アーミィってどんなヤツかなって言ってたぞ」
「どういうことスか…」
 刺斬が顔をしかめた。
「いや、俺が聞きてぇよ。赤ヘルと仲良かったってどういうことだよ?」
「覚えてません? 何年か前に、廊下で転んだ子供にお菓子あげたの…。あれクロウさんっスよ」
「え…」
 刺斬に言われ、鎖は頭の中の記憶を探る。記憶の片隅で消えかかっていたが、そういう事があったような。
「ちょこまか走ってて目の前で転んだガキか。刺斬よく覚えてんなぁ」
 思い出した。起き上がらせてやったら、笑顔で挨拶してきた小さい子供。あれはⅨ籠だったのか。
「菓子あげた時に、兄ちゃんと食べるって言いましたよ。その後も赤ヘルのこと、いろいろ話してたじゃないスか」
「言ってた…な…」
 鎖は記憶の中のⅨ籠を思い出した。内容は忘れてしまったが、兄が大好きなんだなっていう印象を受けたのは確かだ。
 でも、どうも腑に落ちない。
「そんな大好きだった兄貴の事、忘れるかぁ?」
「そこっスよね。鎖さんを疑うわけじゃないスけど、クロウさんに直接聞いてみるしか…」
「おい、もし本当に赤ヘル気にしてんなら、それ聞いたら可哀想だろ」
「まあ…そうっスね…」
 刺斬は苦笑いを浮かべて、灰皿にタバコの灰を落とした。
「あと、もうひとつ不可解な事が…」
「あ? まだあんのか?」
「俺の憶測で確証はないんスけど、クロウさんの人格は保管されてる失敗したクローンの性格っぽいんスよ…」
「あ? 何だそりゃ…」
「他の誰かを真似た思い込みの人格ってのも有り得るらしいんで。あれだけ執着して大事にしてるから、十分可能性は…」
「じゃあ、それだ!」
 鎖は身を乗り出して刺斬に顔を近づけた。
「な、何スか」
 目を丸くする刺斬の隣で、鎖は勢いよく立ち上がる。
「クロウの兄貴たちをぶっ壊せば、クロウの人格は1つに戻る」
「へ?」
 気圧された刺斬は、目をぱちぱちとさせた。
 
 
 
「いやいやいや! やめましょう!? 鎖さん、考えが滅茶苦茶スよ!?」
 後ろから刺斬の制止する声が飛んでくる。が、鎖は構わず廊下を進んだ。
 鎖には、どうしても原因が失敗作のクローンにしか思えなかった。実際に見たことは無いが、刺斬の話では無理矢理に生かされてるようなものでしかない、と。そんなものを兄として慕って大切にしているのだから、まともな精神状態ではない。
 足を止めない鎖に諦めがついたのか、しばらくすると刺斬は黙って後ろに付いていた。
 静まり返った廊下。この付近はⅨ籠を恐れて誰も通ろうとしないから、人が滅多に来ない。そのせいか少しだけ空気は綺麗だし、温度も低い。そんな廊下の奥まった所に、目的の場所はあった。
 物々しい鉄の扉。本来は居住空間として使う部屋ではないので、当然、構内通話装置は付いていない。
 鎖は鉄の扉を叩いてみたが、中から返事は無かった。
「戻ってねぇのか?」
「寝てるんじゃないスかね。クロウさん、他に行くような場所は無いし…」
 訝しむ鎖の隣で、刺斬が小さく言った。
「クロウが寝るなんて珍しいな。寝てんなら都合いいんだけどよ」
「どういうことスか」
「クロウが知らない間に兄貴たちぶっ壊そう…かな、って」
「どうしてもやる気スか」
 やや低い声で、不満を込めた口調で、刺斬が言う。
「兄貴たちがいなくなれば、クロウしか残らねぇだろ」
「そんな確証無いっスよ」
「やってみなきゃ分かんねぇだろ!」
「そんな事したら取り返しつかないんスよ!」
「……」
「……」
 鎖と刺斬は、同時に言葉に詰まって固まった。
「刺斬の言ってる事は分かるけどよ…」
「鎖さんの気持ちは分かりますが…」
 2人同時に言葉をかけ、互いに目を逸らして、長い溜め息をする。
 鎖はもやもやとした気持でいた。刺斬の言う事も、分かってはいる。この荒治療が成功すれば組織への反抗になり、成功しても失敗してもⅨ籠に恨まれて殺されるかもしれない。刺斬はどちらの意味でもやめた方がいいと言ってくれている。
 それでも。
「俺はな、組織もⅨ籠も大事なんだよ。もちろん、お前の事もだ」
「急に、何言い出すんスか。…そう思ってるなら、無茶な事しないでください」
「Ⅸ籠が治れば、上は諦めるだろ。Ⅸ籠の暴走も無くなる。これ以上マシな事あるか?」
「それは治る前提の話じゃないスか。もしクロウさんの状態が悪化したらどうします? 俺はそんなことさせたくない」
「刺斬は考え方がマイナスなんだよ!」
「鎖さんはいつも考えが無謀っスよ!」
「……」
「……」
 鎖と刺斬は、再び同時に言葉に詰まって固まった。
 鎖は眉間にしわを寄せて、後ろ頭を掻く。刺斬との話に埒が明かない。
 冷えた廊下は、2人の会話が止まると無音の世界が広がった。
「ホントに寝てんのか? 薬飲みすぎて死んでねぇだろな?」
 廊下で大声を出していたのにⅨ籠が部屋から出て来ない事に、鎖は怪しんだ。
「物騒な事言わないでくださいよ」
「コレ、どうやって開けんだ?」
「重要機密の部屋なんで、他のと違う造りなんスよ。多分、生体認識型だと思…」
「面倒くせぇッ!」
 鎖は扉に思いきり蹴りを入れた。大きな鈍い音が振動と共に廊下に響く。
「チッ…、さすがに硬ぇな」
「鎖さん、やめてください」
 刺斬が鎖の腕を掴んで制止する。
「放せ刺斬、クロウに何かあったらどうすんだ!」
「何でも壊す方向で解決しようとするのは、悪い癖っスよ!」
「じゃあ、どうしろって…、あ…」
 鎖は息を呑んで固まった。少し離れた所で立ち止まっているⅨ籠の姿があった。いつも足音を立てないものだから、ここまで近づかれるまで全く気が付かなかった。
「お前たち、何してる…」
 鎖と目が合うと、Ⅸ籠は怪訝な表情で目を細めた。
「ボスこそ、どこへ…」
 刺斬もⅨ籠に気付いて、振り返る。
「どこだっていいだろ。お前たちに関係ない」
 気の無い様子で答えるⅨ籠の手には、薬が詰まった瓶が握られているのに鎖は気付いた。薬をもらいに行っていたらしい。Ⅸ籠は鎖の視線が薬の瓶に注がれているのを知ると、瓶を隠すように手を後ろへ回した。
「お前たちがケンカなんて珍しいな」
「いえ、喧嘩では…」
 Ⅸ籠に弁解しようとする刺斬を、鎖は急いで押しのけてⅨ籠の前に立つ。
「クロウ聞いてくれよ! 刺斬が俺のチョコスナック食っちまったんだよ!」
「は?」
 刺斬は訳が分からず困惑の表情で目を見開く。
「刺斬、鎖のお菓子、勝手に食べたのか?」
「え、あ、その…」
 刺斬が言葉に迷うと、鎖は肘で脇腹を小突いた。
「あー、はい。どうしても、腹が減ってたんで…」
 刺斬は、少し頭を下げて答えた。話を合わせてくれた刺斬に感謝しつつ、鎖はⅨ籠の様子を注意して見ていた。
「お前が甘いもの食べるなんて…。でも鎖の許可は取るべきだったな。次から気を付け…」
「あぁ~、俺のオヤツ~! 楽しみにしーてーたーのーにー!」
 鎖はⅨ籠が言い終わる前に大げさな仕草で頭を抱え、今にも泣き崩れそうな声を上げる。そのわざとらしい演技に刺斬は笑いを堪えるのに必死だったが、Ⅸ籠は鎖の取り乱し様に驚いているようだった。
「そんなに好きなお菓子だったのか? 鎖が好きか分からないけど、お菓子ならあるから。ちょっと待ってて」
 鎖の雑な演技でも、Ⅸ籠は疑わずに信じたらしい。扉に手の平を付けると扉が開いて、Ⅸ籠は部屋の中へ入って行った。
「…鎖さん、何考えてんスか」
 刺斬が小声で言うと、鎖は横目で刺斬を見てにやりと笑った。
「…クロウの兄貴の部屋に侵入」
「俺は胃が痛いっス…」
 間もなくして、Ⅸ籠が部屋から出て来た。菓子の袋をいくつか抱えている。
「ほら、好きなだけ持っていっていいぞ」
「えーっと…。あー、コレ。やっぱりコレがいいかなー?」
 差し出してきた袋を選ぶふりをして、鎖はⅨ籠に身を近づける。気づかれない様に、コートのポケットに入れておいた物に手を伸ばした。
「クロウは、コレとコレ、どっちが好きだ?」
「そんなの気にしないで、鎖が好きなの選べ。迷うくらいなら、全部持っていけばいい。…刺斬、お前も好きなのあれば…」
 Ⅸ籠が刺斬の方へ顔を向けた瞬間、鎖は一瞬にしてⅨ籠を抱きすくめて、ポケットに入れていた麻酔薬をⅨ籠の首に打ち込んだ。
「…てめぇッ!!」
 常より低い声でⅨ籠が叫んだ。
「鎖さん!」
 刺斬が声を出すと同時に、うなじにちくりと痛みが走る。危険を感じてすぐさまⅨ籠から身体を離すと、クナイを持ったⅨ籠の腕を刺斬が掴み上げていた。刺斬がⅨ籠の手を掴んでくれなかったら、首を刺されていたところだった。
「お前、クロウの別のやつか?」
「うるさいッ! てめぇら…騙しやがったな…っ…」
 鎖が声をかけると、Ⅸ籠は鋭い目付きでぎりりと歯を噛んで、目を閉じた。くたりと倒れそうになるⅨ籠の身体を刺斬が支えて、片腕で抱き上げる。
「……」
 刺斬が、半眼で鎖を見据える。刺斬を怒らせてしまったと気付いた鎖は、気まずい表情を浮かべて頭を下げた。
「危ないですよ! クロウさん、一瞬躊躇ったから間に合ったんスよ!?」
「悪ぃ悪ぃ。助かったぜ、刺斬。まさか反射行動で刺してくるとは思わなかった。よく訓練されてんな。こういうのって身に染みてねぇとできねぇよなぁ」
「関心してる場合じゃないスよ! 本当、もう勘弁してください。危ない橋選んで渡ってんスか」
 刺斬は深い溜め息をしながら、頭を振る。
「いつの間に麻酔まで用意して…。この事、計画してたなら先に言ってくださいよ」
「いやぁ、計画なんてしてねぇ。行き当たりばったりだ。その麻酔は、前にクロウとやりあった時のな。クロウ用に調合した即効性の特性薬だって聞いたから、もしもの時のために1本もらっといた」
「あの時、医療班が麻酔の数合わないって騒いでましたけど…」
「ははっ、内緒にな」
 悪びれる様子も無く笑いを浮かべて、鎖は落ちた菓子の袋とⅨ籠のクナイを拾う。半開きの扉の奥を見遣ると、薄暗い空間が目に入った。
「本当にやるんスか? 今ならまだ後戻りできますよ?」
 刺斬が制止を含めた口調で言うと、鎖は苦い笑顔を浮かべた。
「悪ぃな、刺斬。俺ぁ正義の味方じゃねぇんだよ」
「わかりました」
 刺斬はそれ以上は何も言わず、鎖の気持ちを汲んでくれた。
 
 
 
 生命維持装置の音が静かに流れる薄暗い部屋は、綿埃のひとつも無く、整然なほど綺麗にされている。一定の温度で保たれたその部屋は、少し肌寒かった。が、寒気がしたのはその肌寒さのせいではなかった。
「……」
 鎖は部屋の中を見回して目を薄めた。想像していた以上に気味が悪かった。
「おい、コレ、ただの塊じゃねぇか…」
 人の身体のどこの部分とも説明できない、人の頭ほどの肉の塊を見て、鎖は刺斬の方へ目を向けた。刺斬は部屋の隅にあるベッドにⅨ籠を寝かせながら振り向く。
「それは、2番目のクローンです。この中では一番年上に当たります。クロウさんはよくそれに甘えてるそうです」
「どうやってだよ…」
 鎖は顔を引きつらせた。水槽の溶液に漂う薄紅色の塊は数本のチューブに繋がれ、規則正しい脈に合わせて微かに動いている。生きているのは間違いないが、そこに意識があって生きているとは到底思えなかった。
 他の水槽には、腕なのか脚なのか分からないものが生えた塊もあった。時々動いては、ガラスに当たって小さな音を立てている。他のは人の形をしていたが、内臓が入ってないらしい腹や頭が異様に凹んだのと、おそらく殆ど死体であろう皮膚が所々剥がれ落ちてるのがいた。
 鎖は一番端にある水槽に目を止める。Ⅸ籠を少し幼くしたような子が膝を抱えて目を閉じていた。
「これは一番クロウに似てんな」
「それは8番目っスね。脳死か植物人間だと思います。クロウさんにとっては一番歳の近いお兄様で、話し相手だそうです」
 刺斬が傍へ寄って来て、神妙な目線を向ける。
「話し相手ねぇ…」
 鎖は溜め息交じりに相槌を打った。部屋の奥に目を遣ると、檻の中で両手両足に枷を付けられて横たわっている青年が見えた。
「あれは7番目。クロウさんが世話してます。あの成長具合からして、永久少年の可能性は低いと思います」
 鎖の視線の先に合わせて、刺斬が説明をする。
「精神破綻してるんで、、大声上げて噛み付いたり引っ掻いてきます。近づかない方がいいスよ」
「クロウがたまに細かい怪我してんのは、あいつのせいか」
 目を凝らして見ると、二の腕にⅦの番号が刻印されているのが見える。痩せてはいるが、身体つきはしっかりしてそうだった。ある程度は訓練されていたが、駄目になったんだと予想がつく。
「クロウは、ああならねぇよな…?」
「…そうだといいですね」
 刺斬は静かに答えて、寝ているⅨ籠をちらりと見た。
「それじゃ、クロウが起きる前にカタ付けるか」
 深呼吸して、鎖がポキポキと指を鳴らす。
「こんな水槽の中で何もできないで生きてるなんて楽しいか? ンなこたぁねぇよな? じゃあ、俺が自由にしてやるよ!」
 鎖は声を大きくした。今まで任務で何人もの命を奪ってきた。だから迷う必要なんて無かった。そう理解しているはずなのに、心に引っかかる罪悪感。それを正当化するための言葉だった。
 しかし、鎖が勢いよく殴った水槽のガラスは、ヒビひとつ入らなかった。
「マジかよ。硬ぇな。そこらの強化ガラスじゃねぇのか?」
「重要機密の部屋なんで、それなりの強度ってとこっスかね」
 隣で刺斬が蹴りを繰り出したが、鈍い音が響いただけで、やはり傷ひとつ付かなかった。
「電源、落としちまうか」
 鎖がぽつりと呟いて、水槽の隣に設置されている生命維持装置の配線に視線を落とす。命を繋ぐにはあまりに頼りない細いものだった。引っ張ってみれば、見た目通りの弱さで機器から抜ける。断線した水槽の住人は少しの間痙攣して、やがて動かなくなっていった。
 こんなにあっさりと死んでいくのに、鎖は少しだけ気が楽になる。Ⅸ籠では無いとはいえ、Ⅸ籠によく似た者の首を絞めるのは気が重いと思っていたからだった。ガラスが割れなかったのは幸いだったかもしれない。鼓動の代わりだった生命維持装置の音は消え、ただただ静かに生かされていた命たちは次々と潰えていった。
「お前で最後だな」
 檻の前に立って、鎖は中にいる青年を見下ろす。伸びた前髪の隙間から、じっと見上げているのが見えた。もしⅨ籠が成長したらこうだろうと容易に想像がつく顔立ちだったが、Ⅸ籠と違って金色の瞳ではなかった。
 鎖は身を屈めて、ゆっくりと手を伸ばす。格子の隙間から片手で青年の首を掴んだ。痩せた細い首だった。握る手に力を込めると、青年は唸るような声を出して引っ掻いてきたが、すぐに力を抜いて首を掴む手を自分から首に押し付ける。それは以前にⅨ籠が暴れてた時の行動と全く同じだった。
「…お前…あの時のクロウ…?」
 全身に鳥肌が立つような悪寒が走った。もしかして、殺されたくて精神破綻したふりをしていたのだろうか。この事をⅨ籠は気付いていなかったのか、気付いていたけどそうしたくなかったのか。
 もし、そうだとしたら。
 Ⅸ籠の別人格は疾患によるものではなく、本当に取り憑かれていたのだろうか。それとも、Ⅸ籠は何らかの方法でこのクローンたちと意思の疎通をしていて、動けない兄たちの代わりをしていたのだろうか。
 でも、どう考えても、そんな事は有り得ない。
「どうしました?」
 鎖の様子を心配して、刺斬がそっと声をかける。
「いや、何でもねぇ…」
 鎖は首を振る。そして、苦しそうに口を開ける青年の耳元に顔を近づけた。
「…ゆっくり休め。お前たちはもう自由だ」
 言葉が通じたのかどうか分からないが、薄い笑顔で青年は目を閉じた。Ⅸ籠がよく見せる笑顔に酷似していた。
 脈拍の消えた首から手を離して、鎖は唇を噛む。
 どれが真実だったのか、もう知る方法が無かった。
 
 
 
 物音ひとつしなくなった部屋に、深く眠ったままのⅨ籠を残して、鎖と刺斬はこの場を去った。
 鎖はⅨ籠の目が覚めるまで残りたかったのだが、刺斬はそれを激しく反対した。刺斬はⅨ籠が兄たちを失った事に逆上して襲い掛かってくると考えていた。その可能性については鎖も分かっていての判断だったが、これ以上刺斬を不安にさせるのも気が引けて刺斬の意見に従った。
 それから数日間、Ⅸ籠は部屋から出る事はなく、上層部からの出撃命令にも従わなかった。Ⅸ籠が命令を無視したのは初めての事だったが、鎖と刺斬は口を合わせて言い訳をして事無きを得た。
 鎖は刺斬には内緒でⅨ籠の所へ足を運んだ。心に爪を立てる罪悪感に逆らえずに突き動かされての行動だった。
 部屋を訪れたら、錯乱しているⅨ籠が飛び出してきて、廊下の壁に後ろ頭を叩きつけられた。大事な兄たちを失わせた、せめてもの罪滅ぼしのつもりで、Ⅸ籠からの暴行を抵抗しないで受け入れた。Ⅸ籠は武器を持っていなかったが、相変わらず小さい身体に似合わない馬鹿力で殴られて、意識が飛びかけたがそこは何とか耐えた。
 少しの間暴れていた後、Ⅸ籠に泣き付かれた。泣かれるのは苦手なんだが。
「どしたよ?」
 Ⅸ籠が落ち着いてきた頃、理由は知っているのに、白々しく声をかけた。
「…悪かった。鎖に怪我させた」
「そんなのどうだっていいだろ。気にすんな」
 鎖は全く平気であると意思表示に笑顔を向けたが、Ⅸ籠は浮かない表情のままだった。
「オレ、ひとりになっちゃった…」
 Ⅸ籠の言葉に、鎖は一瞬息が詰まった。
「俺と刺斬がいるだろ。ひとりじゃねぇよ」
 言い聞かせるようにかけた言葉だったが、Ⅸ籠には今一歩届かないようだった。Ⅸ籠は鎖から半歩身を退いて目を逸らした。
「身体、だいじょぶか? 気分が悪いとか、ないか?」
「何だか、調子がいいんだ。ずっと昔から頭痛かったの無くなったし」
「そか。そりゃあ、よかったな」
 鎖は、肩の荷が下りた気がした。Ⅸ籠は目の下に隈はあったが、はっきりとした目線で見上げてくる。以前よりも鋭くない、温和な視線だった。精神状態は落ち着いているように見えた。
「それでね、兄ちゃ…じゃなくて、赤ヘルと一緒にいたこと思い出した」
「え…」
 鎖は、はっとして目を大きくした。やはりⅨ籠は赤ヘルの事を忘れていたのか。精神的なものが記憶に影響していたのか定かではないが、これで刺斬との話に辻褄が合う。
「…どうして兄ちゃんは裏切ったんだ?」
「それは俺には分からねぇな。上の連中がそう言ってるだけで…」
「オレ、兄ちゃんに悪い事した? 嫌われた?」
「……」
 Ⅸ籠の問いかけの返答に困っていると、Ⅸ籠は特に返答が欲しかったわけではなかったのか、目を閉じて小さな声でうーんと唸った。そしてすぐに目を開く。
「兄ちゃんのこと、始末すればいいんだよね? 上の人の命令だもんね?」
 見上げてくるⅨ籠の金色の瞳には迷いの無い確固たる決心をした様子を感じたが、それが何に対してのものなのか鎖には分からなかった。
「そうだな…」
「ふふっ…」
 頷いた鎖の様子に満足したのか、Ⅸ籠は忍び笑いをしてくるりと身を翻すと、ゆっくりと首だけ振り向いた。
「ねぇ、鎖。オレね、強くなったんだよ。ひとりになったけど、その代わり強くなったから。あははっ」
 以前には無かった明るい笑顔。人を避けるような冷めた口調ではなく、弾むような軽やかな声。
 鎖にはⅨ籠の言っている意味がよく理解できなかったが、少なくとも悪いようには感じなかった。こんなに明るく話をしてくれるⅨ籠は初めてだった。
「まあ、ひとまずメシ食えよ。ずっと部屋に閉じ籠もってて何も食ってねぇだろ? で、メシ食ったら寝ろ。目の下に隈できてんじゃねぇか。ひっでぇ顔してんぞ」
 そう言うと、Ⅸ籠は自分の顔をぺたぺたと触って、気恥ずかしそうに唇を噛んだ。
 そんなⅨ籠の頭を撫でると、Ⅸ籠は一瞬目を見開いて身構えたが、拒む様子はなく素直に身を任せていた。
 鎖は、違和感がして早々に手を離した。このⅨ籠は頭を撫でると忌避するⅨ籠と違う。以前よりも気を許してくれたのか、それとも…。
「お腹は空いてない。…でも、刺斬が喜ぶなら、少しだけ…食べてやろうかな」
「そうしてやれ」
 Ⅸ籠に何か奇妙なものを感じたが、気のせいだろうと思い直した。刺斬もⅨ籠の事をとても心配している、早く会わせてやりたかった。
 歩き始めるⅨ籠の隣に付いて、扉が開きっ放しになっている部屋の前を通り過ぎようとした時、鎖は目を丸くした。
 薄暗い部屋の中は、数日前とは全く違っていた。割れたガラスの水槽。床に散らばったガラス片と広がって浸された水槽の養液に黒ずんだ赤色が混ざっているのが見える。あんなに綺麗だった部屋の変貌ぶりに、鎖は目が放せなくなって凍り付いた。大事にしていた兄たちの水槽を、何故割ったのか。そこにⅨ籠の兄たちの姿は無い。
 立ち止まる鎖に気付いたⅨ籠は、部屋の前に立ち塞がるようにして、鎖を見上げた。
「もうオレひとりになったし、この部屋、必要ないよ」
 そう言ってⅨ籠は後ろ手に扉に指先を触れて、扉を閉じた。
「クロウ。兄貴はどこへやった?」
「早く刺斬のところ行こうよ」
「お前、まさか…」
「オレは鎖がやったこと、すごく嫌だったけど許したんだよ? 7番目以外の兄さんたちは許してくれなかったから鎖を殴ったけど」
「何の…話し…」
 鎖は呟くように震えた声を出した。有り得ない。Ⅸ籠が知っているはずない。それは、Ⅸ籠の妄想なのか、それとも…。
「だから、もう“オレたち”のこと、放って置いて」
 
 
 
 どれが真実だったのか、それを知る方法はもう無く。
 その鴉は()を食い破って自由(ひとり)になった。
 
 
 
 
終わる


ある日の任務

ジャックとⅨ籠のお話。ジャックが気苦労するだけ。


「ジャック、どこに行くんだ?」
 廊下でⅨ籠に声をかけられて、嫌な予感がした。
「これから任務だ」
 時間もあまり無い。ここで時間を潰すわけにはいかず、ジャックはさっさとⅨ籠の横を通り過ぎた。けれど、Ⅸ籠はこちらを覗き込むように見上げて付いて来る。
「オレも行っていい?」
「邪魔だからついて来るな」
「おとなしくしてるから」
「はぁ…」
 ジャックは額に手を当てて呻いた。Ⅸ籠が絶対に付いて来る気でいるのが雰囲気で分かる。正直言うと困る。何せⅨ籠は暗殺に向いてない。目撃者がいたらそいつも始末すればいいという考えだからだ。そういうのが一番に面倒でしかない。
「本当だな? 本当におとなしくしてるんだな? 邪魔するなよ!?」
 これでもかと言うほど、よ~く念を押すと、Ⅸ籠はこくこくと頷いた。
 それでもやっぱり不安は拭えなかった。
 
 
 夜は短くは無いが、目的を成すのに短時間で終わらせるに越したことは無い。しかし、予定の時間に遅れ気味だった。理由は他ならぬⅨ籠のせいだった。
 Ⅸ籠の気配を消すことに関しては本当に関心する。全く物音を立てずに後ろをついて来る様は、闇夜であれば近くにいたとしても完全に姿を見失うほどだろう。しかし、そうであってもⅨ籠は何か見つけるたびに足を止め身を屈める。虫か小動物でも観察しているらしい。これが遅れる原因だった。
「おい、自分の任務じゃないからって気ぃ抜き過ぎだろ。遊びに来たんじゃないぞ」
「ジャックは全力で走ってていいぞ。すぐ追いつくから」
「何か癪に障る言い方だな」
 ジャックは半眼でⅨ籠を見据えた。Ⅸ籠より走る速度が遅いのは事実ではある。他意の無い言葉だったのだろうけど、気にしていることをサラリと言うⅨ籠に少なからず腹が立つ。苛立ちを原動力にして、ジャックは全力疾走した。
 町外れ、外灯の少ない狭い路地。何とか予定の時間前に目的地へ着いたことに安堵した。
 ターゲットの要人は命を狙われているのを薄々感じているのか、人目を避けるようにこの人通りの殆ど無い辺鄙な飲み屋で酒を飲んでから帰宅している。それがかえって好都合だった。
 草の茂みに身を潜めて、待つこと数分。建物からふらふらと酔った男が出て来た。間違いなくターゲットの要人だった。だが予想外な事に、連れの男がいた。連れの男は酔っていないようで、覚束ない足取りの要人の肩を支えている。家まで同行するであろうことは大いに予想が付いた。
 Ⅸ籠だったら迷うこと無く、どちらも始末すればいいと言い出すだろう。そこは暗殺部隊としてのプライドもある。絶対にターゲットだけ始末したい。ターゲットの自宅は繁華街の中にある。そこまで戻られる前に何とかして2人を引き離さなければ。
 ジャックがあれこれと方法を考えていると、隣で伏せていたⅨ籠はきょろきょろと辺りを見回していた。また何か見つけたらしく、立ち上がって近くの草むらへ寄って行った。
「ジャック、猫いるぞ。猫」
「おとなしくしてるって言っただろッ…!」
 ジャックはⅨ籠の軽はずみな行動に小声で怒鳴った。
 しかしⅨ籠は全く気にせず、野良猫を抱きかかえて戻って来た。
「ほら、かわいいぞ」
「お前な、話聞い…って、ぶっさいくな猫だな」
 Ⅸ籠がずいっと近づけてきた猫の顔を見て、ジャックは反射的に感想を述べた。可愛さを一欠けらも感じさせない、どう頑張って見ても不細工な三毛猫だった。Ⅸ籠の美的感覚はズレてるのかという考えが脳裏を掠める。
「にゃッ!」
「イテ」
 はたして猫に人間の言葉が通じたのかどうか不明だが、機嫌を損ねた野良猫はジャックの顔を引っ掻くと、Ⅸ籠の腕から飛び出して通りへと走って行った。
 野良猫が要人たちの目の前を通過して行くと、頭を垂れていた要人は顔を上げた。
「お? 猫だ。俺の女が欲しがってたんだ。お前、捕まえてこい」
「えぇ? でも今の猫、全然可愛くないですよ?」
「いいから、早く捕まえてこい。捕まえられなかったら左遷だ」
「そ、そんな…パワハラ…」
 酔っているせいなのか、連れの男に無茶を押し付ける。連れの男は慌てふためきながら、猫を追って小路へ走っていった。
 ひとり残った要人。この好機を逃す手は無い。
 ジャックは辺りを見回してに誰もいないのを確認すると、静かに目的の人物へ近づいた。
 
 
 Ⅸ籠のお陰…とは思いたくないので、不細工な猫のお陰であっさりと任務を完了できたことにして、ジャックは帰るのを渋るⅨ籠を無理矢理連れて帰還した。
 大通路の一番目立つ柱に寄りかかっている、刺斬と鎖が見えた。人通りの多いここに2人がいるということは、Ⅸ籠がいないことに気付いて探していたのかもしれない。思った通り、Ⅸ籠の姿を見つけるとすぐさま2人は駆け寄って来た。
「ボス、どこに行ってたんですか」
 刺斬が気遣わしげにⅨ籠に声をかける。
「ジャックと遊んでた」
「俺は任務だったんだけどなぁッ!」
 何の迷いもなく答えるⅨ籠の背中に向けて大声を出すと、鎖が怪訝な表情で睨んできた。
「任務だぁ!? クロウに怪我させてねぇだろな? かすり傷でも許さねぇぞ!」
「見ての通りだ! 俺だけ引っ掻かれて終わったよ! そんなに心配なら、Ⅸ籠から目ぇ離すなよ!」
 鎖に言い返してこの場を去ろうと思ったが、段々と怒りが込上げてきて、ジャックは刺斬と鎖を睨み付ける。
「お前ら保護者だろ! ちゃんとそいつ躾けとけ! 全ッ然、言うこと聞かねぇ!」
 ジャックは首をかしげるⅨ籠を指差した。
「お言葉っスけど。俺も鎖さんも、クロウさんの部下であって、親ではないんで。それに『親は無くとも子は育つ』って言いますし?」
「はははっ! そりゃ、俺らみてぇなクローンにはお似合いだなぁ!」
 しれっと言い返してきた刺斬と、豪快に大笑いする鎖。
「オレ、子供じゃないし」
 さらに追い打ちをかけるかのように言い放つⅨ籠。
「こいつら、やりづれぇ…」
 ジャックは口の端を引きつらせる。どっと疲れが沸いてきた。
 怒りを通り越して、呆れるしかなかった。
 
 
 
 
 
終わる