PLASMA擬人化


1日目

2006/08/29

兄との再会

 永遠に無理だろうと思っていた日が、今日、突然にやってきた。
「兄に会わせてやる」
 その研究員の言葉に、僕は息を飲んだ。
 兄が、生きているのだと分かっただけでも嬉しいというのに、その兄に会わせてくれるだなんて。
 兄と別れてから、どのくらいの年月が過ぎただろう。
 僕と同じように、投薬まみれで、副作用に苦しんでいるのかもしれないけれど、それでも、生きていてくれているのなら…。


 兄を連れてくるから待っていろと言われ、僕は小さな部屋で、期待とほんの少しの不安を抱えながら、じっと待っていた。
 やがて、足音が聞こえてきて、僕は振り返った。
 とても、とても久しぶりに……とは、言え、初めてと言った方が良いだろうか。
 対面した兄の姿に、かける言葉がみつから無かった。
 二人の研究員に連行されているかのように自分の前に現れたのは、機械仕掛けの悪魔のような姿をした男だった。カシャリカシャリと、骨組みだけのような鉄の翼を揺らしながら、ゆっくりと近付いてくる。
 死人のような土気色をした皮膚のすぐ下に、明らかに血管とは違う色をした細い管が見える。身体のいたる所には生々しい切開痕に乱雑ぎみな縫合の糸。いったい、どれだけの人間の臓器が残っているんだろうかと、一瞬そんな考えが浮かんだ。
 性格が悪そうに見えてしまう損な目付きは、確かに昔と変わらない兄のものではあったけど、闇夜に浮かぶ月のような色に変色した瞳だった。
「久しぶりだな、シンセ」
 先に声をかけるつもりであったのに、先に声をかけられてしまい、言葉が詰まる。
 面影の残る声を出す、変わり果てた双子の片割れは、つい先程まで培養液の中にいたのか、まだ半乾きの髪をタオルでガシガシと掻き回した。
 神経質に見えるその容姿からは想像もつかない大雑把な様子に、遠い記憶が重なり合う。
 確かに、この人は、兄である、と。
「久しぶりだね…、プラズマ兄さん」
 僕は、動揺を隠し、堂々と声を出したつもりだったのに、少しだけ声が震えた。
「ん…」
 それでも兄は満足したようで、僅かに頷いた。この行動も、昔から変わらないものだった。
「怪訝な顔をして、私を見るものだから、忘れてしまったのかと思ったぞ。まさか会えるとは思っていなかっただろうから、驚くのも無理は無いか」
 薄く笑う兄。
「あ…、…うん」
 忘れたりするものか。ずっとずっと、1日たりとも忘れた事は無い、たった1人の大切な肉親。ただ、そのあまりの姿の変わり果て様に、心が痛んだだけ。
 兄の言葉は、的確ではなかったけれど、僕は素直に頷く事にした。
 兄は、後ろで待機している研究員の方へ振り向いた。その後ろ姿を見て、骨組みの翼はそれを接続している何かを背負っているのだとばかり思っていたのだが、実際はそうでは無い事を知った。
 自分の知る範囲では、素早く行動する為に、身体に加速歩行器や小型ジェット装置をつける者がいる。しかしそれはあくまで身に付けるものであって、この兄の様に直接身体に付いているものではない。
 鉄の翼は、無理な付加装置である事を物語るように、その接続部分の肌を赤黒く染めていた。
 研究員にタオルを渡し、代わりに光すらも吸い込んでしまいそうな真っ黒な服を受け取り、兄は慣れた動作で手早くその服を身に纏った。隙間無く身体の寸法に合わせてあるその黒い服には、服の上からでも検査や配線接続ができるように赤や灰色のラインやマーカーの線が描かれていた。
 兄は、もう1人の研究員から、弓形の黒いアンテナのような物を受け取り、それを頭に乗せる。
 カチリ…と、明らかに金属と金属の接合する音が、確かに聞こえた。その冷たい音に、じわりと何かが込み上げる。
 僕にとって大切なこの人は、いったい、どのくらい…人間なんだろう。
 こちらに振り返った兄の顔を見上げると、兄は目を細めた。
「言いたげだな、シンセ?」
「いいや…別に…」
「久しぶりに会ったのだ、言いたい事があるなら言うといい。私は、言いたい事があるはずなのに、思い付かないのでな。弟不孝で悪いな」
 苦笑いを浮かべ、それから兄は黙ってしまった。
 僕は、言葉ではどう言い始めれば良いのか分からず、じっと兄の背から生えた鉄の翼を見詰めた。
「これか?」
 カシャカシャと小さく翼を動かしながら、兄は訊いてきた。
 その翼の反応の良い動きに、もはや馴染んだ身体の一部なのだろうと改めて思った。
「フフ…こんな仰々しい物が付いていれば、嫌でも目がいくか。…初めは拒否反応が出て大変だったが、今では何ともない」
「そう…」
 頷いたものの、そうではないと、心の中で思った。
 兄は、嫌ではないのだろうか。散々身体の中身を入れ換えられて、挙げ句には人間には不釣り合いな物まで付けられて。それに比べて、僕は、多量な薬の副作用で多少苦しんだだけで…。
 あの時の事を、鮮明に覚えている。ぼんやりとした意識の中、僕にメスが入れられようとしていた時、兄が身代わりになると泣き叫んでいた事を。
 あの時に、兄が言い出してくれていなかったら、自分が兄のような姿に変わり果てていただろう。そう思うと、安堵と同時に、兄にとても申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「兄さん…」
 僕は、兄の手を握った。あの温かかった手も、今は鉄の作り物の冷たさだった。その代わりではないけれど、薬の副作用で異常に上がってしまった自分の体温が、兄の鉄の手に僅かながら熱を与えた気がした。
「何だ」
 穏やかな兄の顔を見上げて、それから、顔を下げた。
「…ごめんなさい」
 今は、これが精一杯の言葉だった。
「何故、謝る必要がある。これから、命の奪い合いをするというのに」
「え…!?」
 今、兄は、何て言ったのだろう。にわかには信じられない事を言った気がする。
 言わないで。聞きたく無い。
 兄にも聞こえてしまうのではないかと思うくらい、心臓の鼓動が早くなる。
「何だ。聞かされていなかったのか。私とお前は、どちらかが絶命するまで、戦うのだぞ」
 この施設では、ごく当り前の事かもしれないけれど、それとこれとは別にして欲しい。
 だって、大切な、兄だから。
 どうして、どうして、相手が兄でなければならないのか。
「全力でかかって来い。手加減はしないぞ」
 嘘だ。あの優しかった兄が、僕にそんな事を言うはずが無い。
「本気…なの? プラズマ兄さん」
「死際には、苦しまないよう、楽に殺してやるさ。せめてもの愛と思え」
「そんな…」
 顔をしかめる僕に、兄は、フッと嘲笑いを浮かべた。
 見かけだけではなく、心まで悪魔になってしまったのだろうか。
 何という事だろう。
 悲しくて、そして、こんな兄にしてしまった研究員たちが憎くて、僕は俯いた。
 そんな僕に、兄は冷たく。
「戦う日は、1週間後だ。楽しみに待っているぞ」
 と、背を向けて言い残し、去って行った。




弟との再会

 いつかこの日が来るであろうとは思っていた。
 実の弟に、会いたく無い訳が無い。たった1人の、大切な肉親だ。常々いつか会えると思って、どんな手術にも検査にも実験にも耐えてきた。
しかし…。
 研究員の言葉に、弟との再会に葛藤が生じた。
 それでもやはり、会いたいと思う気持ちの方が大きい事は確かだった。


 それは急な話であった。
 傷の養生の為に培養液に浸されてた私は、半ば無理矢理に身体を出された。軽く水気を拭き取っただけで、二人の研究員がついて来いと短く言った。
 二人の研究員に連れられ、向かった先の部屋には、ひとつの人陰が立っていた。
 懐かしい顔。まだ幼さの残る顔付きは、間違い無く弟のもの。あれからの年月で、身体にだいぶ筋肉が付いて大きくなったようだった。薬の作用だろうか、目の色がルビーのような真紅色に変色している。髪も、少しバサバサになったようが、それ以外はあの時のまま手を加えられる事無く成長しているように見える。
 あの時、寝台の上の弟にメスが入る前に、泣き叫んで交代を願った甲斐があったというものだ。弟は、常人を遥かに超える力を持っているであろうが、見かけだけは普通の人間の範囲である。
 その姿なら、いつかこの施設を出ても、普通に暮らしていけるだろう。
 そんな弟に、近寄る。
「久しぶりだな、シンセ」
 戸惑っている様子の弟に、そっと声をかけた。しかし、弟は私の姿を凝視するばかりで、何も返答をしない。
 忘れてしまったのだろうか。私は、1日たりとも忘れた事は無いというのに。
 私は、まだ乾いていない髪をタオルで拭き始めた。タオル越しに、自分の頭に開けられた接続部の鉄の硬さに触れて、一瞬忘れていた今の自分の姿を思い出す。
 弟に気付いてもらえなくても、仕方の無い事なのかもしれない。
 「久しぶりだね…、プラズマ兄さん」
 しかし、弟は、それでも、自分の名を呼んでくれた。
「ん…」
 安堵して、小さく頷いた。私の事を認識してくれただけで、十分だ。
「怪訝な顔をして、私を見るものだから、忘れてしまったのかと思ったぞ。まさか会えるとは思ってい無かっただろうから、驚くのも無理は無いか」
 そう言って薄く笑顔を見せると、弟はハっとして、頷いた。
「あ…、…うん」
 弟は、言いたい事に迷っているのか、詰まるような返答をする。
 髪を拭き終えたタオルを、後ろの研究員に渡し、代わりに黒いボディスーツを受け取り、それを着た。すっかり身体に馴染んだそれは、着ていない方が気持ち悪いくらいになっていた。
 もう1人の研究員から、黒い弓のような形をした制御装置を受け取り、それを頭に乗せるように接続する。これで、通常の自分でいられる。制御装置が付いていないと、身体が重くて動くのもままならないし、呼吸装置の稼動時間も限られてしまう。
 結局は、研究員のいいように拘束されているようなものだが、弟がこんな身体にされなかった事を思えば、我が身の事など、どうでもいい。
 再び弟の方へ振り返ると、弟はまだ何か言いたげな顔で見上げていた。
 昔から、何か言いづらい事があると、いつもこんな目で見上げてきた。懐かしいその視線に、自然と微笑んだ。
「言いたげだな、シンセ?」
「いいや…別に…」
 それでも弟は、言葉とは裏腹に、同じ視線を向けている。
 私とて、言いたい事はたくさんある。あるのだが…。
「久しぶりに会ったのだ、言いたい事があるなら言うといい。私は、言いたい事があるはずなのに、思い付かないのでな。弟不孝で悪いな」
 そう言うと、弟は私の身体から少しだけ左に逸れた位置に目を向けた。この身に付けられた翼を見ている。
「これか?」
 異物であるはずの物だが、すっかり自分の身体になってしまった翼を動かして見せた。
 恐らく、この姿を見て心を痛めているのだろう。昔の姿から、随分と掛け離れてしまったものだから。
 ここは気丈に振る舞わねば、余計に傷付くかもしれない。
「フフ…こんな仰々しい物が付いていれば、嫌でも目がいくか。…初めは拒否反応が出て大変だったが、今では何ともない」
「そう…」
 弟は、頷いた。頷いたものの、不安げな表情のままだった。
「兄さん…」
 弟は、私の手を握った。実験の事故で両手を失った私には、弟の手の温かさなど感じられるはずも無く。何かに触れたというセンサーの情報だけが、頭に伝わって来た。
 弟は、一字一字を確かめるように、少し震えた声を出した。
「…ごめんなさい」
 その一言に、今までの苦しみが報われた気がした。
 分かってくれている。この大切な弟は。兄想いの弟だから、きっと私の姿に、私以上に傷付いている事だろう。
 だが、これでは駄目だ。弟に、自由になってもらってこそ、私の願いが叶ったというもの。
 これからまだ、先があるのだから。私に、気持ちなど向けてさせてはいけない。
 今ここで、弟を突き放すしかない。
「何故、謝る必要がある。これから、命の奪い合いをするというのに」
「え…!?」
 私の言葉に、弟は目を見開き、驚愕したようだった。
 研究員たちめ。残酷な事をしてくれる。
 弟は、何も知らずに、純粋な再会として私と会わされたという事か。
「何だ。聞かされていなかったのか。私とお前は、どちらかが絶命するまで、戦うのだぞ」
 研究員たちが、約束してくれた。戦って勝った者を、この施設から出してやる、と。
 弟に、早くここから出てもらいたかった。こんな悪夢のような世界から、早く。
「全力でかかって来い。手加減はしないぞ」
「本気…なの? プラズマ兄さん」
 目に見えて分かる程に、弟は顔を曇らせた。
「死際には、苦しまないよう、楽に殺してやるさ。せめてもの愛と思え」
「そんな…」
 これを絶望と言うのだろうか。そんな表情をした弟に、私はフッと笑ってみせた。
 すまないな。本当に、すまないと思う。だが、これ以外に、弟を助ける方法は無い。
 今にも泣き出しそうな顔の弟が俯く。
 そんな弟を見ているのが辛くて、背を向けた。
「戦う日は、1週間後だ。楽しみに待っているぞ」
 わざと吐き捨てるように言い残し、私は後ろ髪を引かれる思いで、弟の部屋を出た。

2日目

2006/09/05

聞いた本当の事

 兄と再会した翌日。
 居ても立ってもいられずに、僕は部屋の中をうろうろと歩き回っていた。狭い部屋で、短い距離を何度も何度も往復しながら、考え込んでいた。
 おかしい。絶対におかしい。
 数年ぶりに会ったからって、兄はあんなに冷たい言い方をする人じゃない。
 長い時の間に、性格が変わってしまったのだろうか。
 いや、そんなはずない。
 兄は嘘をついている。その確信がある。
 もう一度、兄に会って、話がしたい。話して、本当の事が知りたい。
「う~ん…」
 呻いてみても、何の解決にもならないけれど。
 気持ちは焦っていても、部屋のドアには鍵がかかっていて、出られない。
 鍵が開いていれば…。
 そう思った時、ドアが開いて、研究員が入って来た。
「もう、起きていたか」
 研究員はそう言って、机の上に薬箱を置いた。
「おはようございます」
「昨日まで飲んでいた薬は、もう飲まなくていい。栄養剤だけ飲め」
 と、研究員は薬箱を指差した。
 薬箱には、いつも飲んでいる栄養剤だけが入っている。昨日まで飲んでいた他の多量の薬は入ってなかった。
 どうしてだろうかと、研究員の顔を伺うと、研究員は口の端を上げた。
「結果を出せ」
 その言葉で解った。
 きっと研究と実験が終わったんだ。だから後は、その結果を出すだけ。
 僕と兄、どちらが強いのかを。
「あんな造り物の悪魔に、お前が負けるはずが無い」
 研究員は、紐の付いたカードを、僕の首に下げた。
「これ、何ですか?」
 そのカードを手に取って見てみるが、記号や数字ばかりで、《行動許可範囲レベル1 ~第12地区内~》と書かれた所しか読めなかった。
「それは行動許可証だ。それを下げていれば、12区内のどこへ移動しても構わない」
「本当ですか!」
 兄に会いに行けるかもしれないと思って、思わず声が大きくなった。
「あの…、昨日会った人は、どこに…?」
 恐る恐る訊ねてみる。
 研究員は難しい顔をして少し考えていたけど、やがて口を開いた。
「…まぁ、いい。アレに会って、弱点でも探って来い。上の階の24号室だ。隙があれば殺してきても構わんぞ?」
 本気なのか冗談なのか、研究員は笑った。
「ありがとうございます!」
 後半の言葉の事は気にしないようにして、お礼を言い、僕は足早に部屋を出た。
 廊下に出るのは、初めてじゃないけど、ひとりで出るのは初めてだった。いつも、研究員に連れられていたから。
 いつもと違って、廊下は人陰が多かった。研究員たちが急ぎ足で行き来している。
 研究員たちにぶつからないように、素早く左右に動きながら、廊下を走る。特殊な薬の作用で、身のこなしが普通の人よりもずっと俊敏で軽い。
 見知らぬ顔の研究員が何か言いたそうな顔を向けてきたけど、気付かないふりをして走った。怒っている様子じゃなかったから、止まらなくてもいいと思った。
 すみません。今は、すぐにでも兄に会いたいんです。と、心の中で謝っておいた。
 長い廊下を進んで行くと行き止まりになって、代わりに階段が見えた。階段の壁には、《↓・第11地区》と大きく書かれている。
 研究員は上の階だと言っていたのを思い出して、階段を上がる。
 上がった先は、下の階をそのまま持ってきたような同じ廊下が遠くまで続いていた。一瞬、自分は本当に階段を上がったんだろうかと思う錯覚が起きる。
 ここでもやっぱり、研究員たちが廊下を歩いている。下の階と違って、知らない顔の研究員ばかりだった。
 研究員たちの間を縫うように走りながら、24号室と書かれたドアを探す。
「あっ」
 通り過ぎてしまいそうになって、慌てて止まる。ドアが開いていたから、見えていなかったけど、23号室の隣であるここは、きっと24号室だ。
「兄さん、いる?」
 僕は、そぅっと部屋へ入ってみた。いつも自分がいる部屋とほぼ同じくらいの狭い部屋で、兄の姿が無い事はすぐに解った。
 どこかに出掛けてしまったのかもしれない。
 ふと、机の上にある薬箱を見つけて、栄養剤を飲むのをすっかり忘れて来てしまったのを思い出した。部屋に戻ったらすぐ飲んでおこう。
 ここで待っていた方がいいのか、探した方がいいのか。
 どっちの方が早いかを考えていると、カシャリと音がした。
 昨日に聞いたばかりの、この音を聞き、はっとして出入り口の方へ振り返った。
「兄さん」
 兄の姿を確認すると、僕は駆け寄った。
「シンセ…」
 驚いた顔をして、兄は僕の名を呟いた。
「ここに、兄さんがいると教えてもらって、来たんだ」
「何故、来た」
 昨日と同じ冷淡な口調で、兄が短く言った。
「12地区内なら、どこへ行ってもいいって言われたんだ。だから…」
 そう言っている間に、兄はよそよそしい態度で僕の横を通り過ぎ、ベッドの端に座った。
「悪いが、帰ってくれ。…それとも、今、ここで殺されたいか」
 低い声。兄が左手を握るのが見えた。
 やっぱり…。兄は嘘をついている。きっと何か隠している。
「話をしたくて…」
 僕は、ベッドに座った兄の前に行き、そこに膝を付いて、兄と同じ目の高さに合わせた。
「帰れ」
「兄さん!」
 話すら聞いてくれそうもない兄に、僕は声を大きくした。
 兄は溜め息して、顔を背向けた。
 ぎゅっと握ったままの兄の左手を見て、僕は一呼吸おいてから、ゆっくり言う。
「……嘘を、ついているね」
 この言葉に、兄の目が一瞬だけ大きく開かれたのを見逃さなかった。
 兄は、ゆっくりと僕の方へ向き直った。
「嘘を付く必要があるとでも、思っているのか」
「ほら、そうやって…。兄さんは昔から、嘘をつく時、必ず左手を握るんだ」
 白を切ろうとする兄に、僕は言ってやった。
「…」
 兄は言葉を失ったようだった。
「昨日も、そうだった。…ねぇ、兄さんは、何を知っているんだ? 何を隠してるんだよ?」
 問い詰めると兄は少し迷ってから、表情を和らげて僕の頭を撫でた。僕は驚いたけど、懐かしくて目を細めた。
 兄はベッドで座っているすぐ隣を、ぽんぽんと叩く。ここに座れ、という事だろう。
 僕は、そこへ座った。
「シンセ、本当は、知って欲しくは無いのだが…、はやり話しておく」
「うん」
 兄は暗い表情で、話を始める。
 僕は聞き逃さないように、耳を澄ませた。
「6日後の、戦闘は、事実だ。私とシンセの、どちらかが死ぬまでの死闘になる予定らしい」
 兄の話に、心臓が大きく動いた。昨日のこの話は、やっぱり本当なのかと思うと、嫌な悪寒が走る。
「そんな事、できないよ…!」
「…そう、だろうな。私も、同じ思いだ。…だがな、研究員は、ある約束をしてくれた」
「約束?」
「勝った者は、この施設から、出してもらえる。自由になれるんだ」
「……」
 それは、本当なんだろうか。ここから、出られるだなんて。
 でも…。
「だから、シンセ。お前が、私に勝つんだ。私は、手出ししない」
 兄の言葉に、身体が固まった。
 兄は何を…言ってるんだろう。話の先の意味が恐くて、それ以上は、聞きたく無かった。
「嫌だよ!」
「何を言う。出たくはないのか」
「出たいよ。出たいけど…!!」
 僕は、思わず立ち上がってしまった。
 兄を失ってまで、出るだなんて、できない。
「辛いかもしれんが、仕方が無い。私が、自害した所で、研究員は、納得してはくれない。だから、私を…」
 お願いだから、言わないで。
「どうして…兄さんでなきゃいけないんだ!! 他のやつなら誰だっていいのに…!」
「聞き分けてくれ、シンセ」
 兄は困った顔をしたけれど。
 それでも…。
「兄さんの、馬鹿!」
 僕は走り出していた。
 来た時よりも早く、廊下を駆け抜けて、自分の部屋へ。




話した本当の事

 弟と再会した翌日、研究員から、首に下げる紐の付いたカードを渡された。
 このカードの説明はされず、研究員に、これから会議で忙しくなるから、戦闘の日まで温和しくしていろ…とだけ言われた。
 そして、6日分の薬を机の上に置いて、研究員は部屋を出て行った。
 私への改造手術は、もうしないと見て間違い無いだろう。これ以上、身体に余計な異物が付かずに済むのかと思うと、自然と安堵の溜め息が出た。
 私は机に置かれた薬箱から、1日分の薬を分け、その大小様々な20粒を口に入れて、見るからに化学物質の溶けたような鮮やかな色の液体で、一気に飲み込んだ。
 未だに慣れずにいる、服用後の妙な苦味と舌の痺れに口を動かしながら、先程に受け取った紐付きカードに見入る。
 《行動許可範囲レベル1 ~第12地区内~》と、書かれている。他にも、記号や数列が書かれていたが、私が理解出来たのは、この箇所だけだった。
 出入り口に目を遣ると、ドアは開いたままになっている。つい昨日までは、必要とされる以外は、部屋に閉じ込められていたのだが。
 出て、みるか。
 このカードを渡してきたという事は、勝手にこの部屋を出ても良いという提示だろう。第12地区が、どれ程の広さであるのかまでは解らないが、それ以上は出なければ問題無いという事だ。
 私は、腰掛けていたベッドの端から立ち上がり、部屋を出てみた。
 灰色の廊下が、左右にずっと遠くまで続いている。
 この部屋の左隣にある医療室と、その先にある手術室くらいしか、移動した事が無かった為、私はそれ以上の先を知らない。
 慌ただしく廊下を通る研究員たちがいる。顔の知れた者が多いが、見知らぬ顔の研究員も通っていた。
 研究員たちの邪魔にならんよう、極力努めて翼を閉じ、頭の無闇に大きい制御装置にも気を使って端を歩いていたが、鈍臭い研究員には当たってしまい、その度に書類が廊下に散らばった。
 ちゃんと、前を見て、歩け。
 …などと、文句を言えるはずも無く、私は頭を下げて、率先して書類拾いを手伝った。
 廊下を進んでいると、ドアの開いている部屋があり、そっと中を見てみると、研究員たちが円卓に円陣を組んで、話し合いをしているのが見えた。
 私に気付いた研究員が、得意げとも満足ともとれる笑顔を浮かべる。
 その笑顔に、どう対応すべきか判断がつかず、目を逸らしてしまった。それでも、研究員は気にしていない様子だった。
 貪欲な研究員たちは、研究が終わったら、直ぐさま『結果』が知りたいのだろう。
 私と弟、どちらが強いのかを。
 研究員たちは、派閥の別れた研究チームなのだと思う。方向性の違いから、2つに。
 その予測は、的中だろう。
 それを物語るように、軟禁にまで許された私が、どこへ行く訳でも無く灰色の廊下を歩いていると、見知らぬ顔の研究員が、ジロジロと奇異の目で見てくる。
 中には興味本位からか無闇に触ってくる者もいたが、不本意ながら温和しくしていた。直接には関係の無い研究員であっても、おざなりにすれば分が悪い。
 どんな薬を投与され、どんな実験をされていたのか訊く者もいた。しかし、これには答える事を禁止されていたので、首を振って黙っていた。
 そんな研究員たちが煩わしくなって、さして遠くへも行けずに、いつも監禁されている部屋に戻る事にした。
 皮肉なものだと、自嘲した。
 常には自由を願っていて、僅かながら自由になったとしても、不安に駆られて元の場所へ戻ってしまうのだから。結局は、ここにしか居場所が無いという事だろうか。忌わしい場所であるはずなのに、安堵する。
 すっかり見慣れた部屋に戻ると、目を疑った。
「兄さん」
 そこに居たのは、昨日に再開した、弟だった。昨日に会った格好は軽装であったが、今は白と橙色の甲冑のような物を身に付けている。
 弟は、私の姿に気付くと、出入り口まで駆け寄って来た。
「シンセ…」
「ここに、兄さんがいると教えてもらって、来たんだ」
 良く見れば、弟の首にも、私が先程に受け取ったカードと同じような物が下がっている。
 弟も、行動許可が下りたという事か。
「何故、来た」
「12地区内なら、どこへ行ってもいいって言われたんだ。だから…」
 どこか求めるように見上げてくる弟を横目に、私は部屋に入ると、ベッド端に腰掛けた。
 駄目だ。弟と、話しをしては。
「悪いが、帰ってくれ。…それとも、今、ここで殺されたいか」
 常より低い声で、威嚇したつもりだったが、弟は、一瞬だけルビー色の瞳を揺らめかせただけで、唇を噛んだ。
「話をしたくて…」
 私の脅しにも屈せずに、弟は私の前までやって来ると、床に膝を付いて、私と目線の高さを合わせた。
「帰れ」
「兄さん!」
 弟は、真直ぐにこちらをじっと見詰めながら、声を荒げた。
 これは参ったな。この弟は、どうにも頑固者で仕様が無い。昔から、自分が納得いかないと、何が何でも解決しようとする。
 私は溜め息して、顔を背向けた。
 その目線の先に、この部屋にある洗面所の鏡が視界に入る。
 鏡に映る私と弟が、悪魔と悪魔に願いを請う戦士に見えて、何とも滑稽な絵のように見えた。
「……嘘を、ついているね」
 と、弟が言った。
 その言葉に、慌てかけたが、直ぐに平静さを装って、弟の方へ顔を向ける。
「嘘を付く必要があるとでも、思っているのか」
「ほら、そうやって…。兄さんは昔から、嘘をつく時、必ず左手を握るんだ」
「…」
 自分でも気付かなかった癖を言われ、私は、先の言葉に詰まった。
「昨日も、そうだった。…ねぇ、兄さんは、何を知っているんだ? 何を隠してるんだよ?」
 弟の懸命な様子に負け、私は、弟の頭を軽く撫でると、隣へ腰掛けるよう、ベッドの上を叩いた。
 弟は素直に、そこへ座った。
「シンセ、本当は、知って欲しくは無いのだが…、はやり話しておく」
「うん」
「6日後の、戦闘は、事実だ。私とシンセの、どちらかが死ぬまでの死闘になる予定らしい」
「そんな事、できないよ…!」
 弟は苦しそうな顔をした。
「…そう、だろうな。私も、同じ思いだ。…だがな、研究員は、ある約束をしてくれた」
「約束?」
「勝った者は、この施設から、出してもらえる。自由になれるんだ」
「……」
「だから、シンセ。お前が、私に勝つんだ。私は、手出ししない」
「嫌だよ!」
「何を言う。出たくはないのか」
「出たいよ。出たいけど…!!」
 感情的になってきた弟は、勢い良く立ち上がった。
 その気持ちは分かる。分かるが…。
「辛いかもしれんが、仕方が無い。私が、自害した所で、研究員は、納得してはくれない。だから、私を…」
「どうして…兄さんでなきゃいけないんだ! 他のやつなら誰だっていいのに…!」
「聞き分けてくれ、シンセ」
「兄さんの、馬鹿!」
 弟は、泣き出しそうな顔で言い、部屋から走り去って行った。
 やはりな。
 こうなる気がして。
 だから、本当は話したくなかったのだ。
 何も知らずに、私を殺して、自由になってもらえれば、それで良かったのに。
 私は、今日、何度目になるかの溜め息をして、そのままベッドに横になると、目を閉じた。

3日目

2007/01/03

行動

 昨日の事が頭の中に残っていて、なかなか寝つけないまま、起床時間になった。
 起床時間と言っても、時計も外の風景が見られる窓も無いから、朝なのかどうかなんて、さっぱり解らないけれど。それでも、体内時計というものがあるから、いつも研究員に起こされる時間くらい感覚で解る。
 昨日の、兄の部屋を走り出る寸前に見た、兄の困ったような顔を思い出す。
 昔から、兄はあんな顔をする。僕が言う事を聞かない時に。
 兄のそんな顔を見たくはない。
 見たく無いけれど。
「昔みたいな、事じゃ無い…」
 昨日のは、昔の事とは訳が違う。
 自分たちは、殺し合うために、この施設に捕われたんだろうか。
 一体、何のために?
 ここに連れて来られてから、実験や検査ばかりで、じっくりと考える時間すら無かった。
 この施設は、何が目的なんだろう。
 自分にされている、多量の薬の投与がその目的の通過点なら、きっと身体能力強化の薬を造っているんだとは考えられる。
 それでも明らかに異常すぎるこの量は、明るみに出さない法外な秘密裏の危険な実験なのだろうけれど。
 でも、兄のあの姿を考えると、新薬の製造だけでは無いのだと解る。
 あんな身体になるまで、どれくらい身体を切り開かれたんだろう。
 考えてみても、なにひとつ解りそうもなくて、僕はベッドから下りると、今日の分の薬を飲んで部屋を出た。

 昨日と変わらず、研究員たちが忙しそうに廊下を移動している。灰色の廊下は研究員たちの白衣のせいで明るく見える気がした。
 行く宛も無く、廊下を進んでいくと、行き止まりになって階段の踊り場に出た。
 昨日、兄の部屋に行く方向とは逆の方向に進んでみたんだけれど、それでも同じような階段にしか出逢わなかった。
「あれ…?」
 その階段の下の方に、可愛らしいピンク色が見える。
 そっと覗いてみると、11地区へと繋がる階段の真ん中くらいに、可愛いピンク色のワンピースを着た、そのピンク色に負けないくらい綺麗なピンク色の髪の小さな少女が座っていた。
 研究員にしては、まだ幼い子供。研究員の子供だろうか。微かに肩が震えているように見える。
「ねぇ、君、大丈夫?」
 驚かせてしまわないように、小さく叫んでみた。もっと近付いて声をかけるのがいいんだろうけど、この階段は11地区の範囲だから、下りる事は出来なかった。
 しかし、声をかけても、少女からの反応は無い。
 僕は廊下へ振り向いて、研究員がこっちを見ていない事を確認すると、階段を下りてみた。見つかったら怒られてしまうかもしれないけど、そんな事よりも、小さな少女の方が気になった。
「ねぇ、どうしたの?」
 3歩くらい距離をおいて、もう一度声をかけてみると、少女はゆっくりと、振り向いた。
 泣いていたんだろうと解る、その腫れた目で僕を見上げて、少女は不思議そうな顔をした。
「あなたは、だぁれ? 研究員さん?」
「え…、あ、僕は、シンセっていうんだ。研究員じゃないよ」
 少女のいきなりの質問に、逆に僕の方が驚いてしまった。少女は泣いていたけれど、意外に冷静でいるみたいだった。
「よかった…。わたしね、サン・ホライゾンっていうの」
 何か安心したのか、サン・ホライゾンと名乗った少女の顔が、少し笑顔になった。
「サンちゃんは、こんな所で泣いて、どうしたの? 迷子になっちゃったのかな?」
「わたしね、お家に帰りたいの。だから、お部屋を出て来たの」
 少女の足を見ると、足枷が付いているのが見えた。首からは、自分がもらった行動許可証と良く似たカードが下げられている。こんな、ちいさな子が、実験体なんだろうか。
 冷たい床の上を、裸足で歩き回っていたらしく、少女の小さな足は皹で血が滲んでいた。
 僕の目線が気になったのか、少女はワンピースの裾で足を隠すと、さっきよりももう少しだけ明るい笑顔を向けた。
 気丈な子なんだな。
 でも、小さな足の傷はあまりにも痛々しく見えて、僕はいつも携帯している包帯がある事を思い出して、それを出そうとした。
「シンセお兄ちゃんも、泣いていたの? わたしといっしょね」
「え…」
 少女に言われて、僕は目元に手を触れた。気が付かなかったけど、昨日の兄との事で、泣いていたかもしれない。
 こんな小さな子に、泣いていた事を知られ、ちょっと気恥ずかしくて苦笑いが浮かんだ。
「あはは…ちょっと、僕のお兄ちゃんとケンカしちゃったんだ」
 そう言うと、少女の顔は一段と明るくなった。
「シンセお兄ちゃんには、お兄ちゃんがいるのね。わたしね、お姉ちゃんがいるの!」
 嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「お姉ちゃんたちはね、やさしくて、あったかくて、おいしいごはんも作ってくれて・・・」
 小さな身体いっぱいに嬉しさを見せていた少女だったけど、言葉が進むにつれて、だんだんと表情が曇っていった。
「わたし…わたしね、ここから出たいの。出たいのぉ…。お姉ちゃんたちに会いたいよぅ…」
 少女の大きな目に、涙が浮かんだ。その次ぎには、少女は俯いて顔を両手で覆い、肩を震わせ始めた。
「ごめんね。僕じゃ、君をここから出してあげられない…」
 僕は、少女の頭を撫でるくらしか、慰める方法が思い付かなかった。
 泣き声を堪えて肩を震わせるこの少女は、お姉さんたちと離れて、こうしてひとりで声を殺して泣いていたんだろう。
 こんな小さな女の子も捕らえて、本当にこの施設は何が目的なんだろうか。
 僕たちや、この少女以外に、どれだけの実験体がいるんだろう。
「足、冷たくて痛いよね。包帯巻いてあげるよ」
 静かに声をかけると、少女は恐る恐るとワンピースの裾から小さな足を出した。
 皹の酷い足。長時間歩き回っていたんだろう。足が限界になって、ここに座っていたのかもしれない。
 僕は、包帯を取り出して、丁寧に足に巻いてあげた。足枷が邪魔になって、少女の両足を繋いでいる鉄の足枷を割るように取り払うと、少女は驚いたような顔をした。
「シンセお兄ちゃん、ちからもちなのね」
「うん。普通の人よりは、ね」
 人為的ではあるけれど。と、言い足そうとして、言葉を止めた。薬の所為だと言っても、少女には難しい話だろうから、黙っていた。
「こんな所にいたのか」
 包帯を巻き終わる頃、低い声が階段に響いた。
 少女がびくりと身体を震わせる。
 階段の下に、初めて見る顔の研究員が立っていた。
「部屋に戻るぞ」
 研究員は脅すように冷たく言い放って、少女を睨んだ。
 僕は思わず、少女を守るように抱き寄せてしまった。
 研究員の視線が、僕の方へと移る。
「どこのチームの実験体だか知らんが、勝手な事をするな」
「でも、こんな小さな子に…」
 言いかけていた僕を、少女が見上げ、首を振った。
「シンセお兄ちゃんが、わたしのことを庇ったら、シンセお兄ちゃんが怒られちゃうもん…」
 少女は僕の手を放し、研究員の傍へと階段を下りて行った。
「ありがとう、シンセお兄ちゃん。足、もう冷たくないよ」
 その悲しさを堪える笑顔に、心が痛くて、僕は小さく頷く事しかできなかった。
 研究員に連れられて、少女は階段を下りて行く。
 少女と研究員の姿が見えなくなって、僕は我に返った。
 あんな小さな女の子なのに、足をボロボロにしてまで、必死にここから出ようと頑張っている。
 そうだ。何とかして、ここから出られないだろうか。
 そすれば、きっと兄とも戦わなくて済む。




思慮

 研究員が、部屋を去って、私は、ベッドの端に座った。
 時折、苛立った研究員が、私を殴りに来る事がある。
 弱い人間が、弱い立場の者に当り散らす事を、私は、愚行としか思わない。以前は、無闇に当たって来る研究員に腹が立って、研究員に怪我を負わせた事があったが、結局、それでは悪循環なだけで、温和しくしている方が自分の為でもあった。
 汚行に塗れたこの世界の、愚行に加担する気など、毛頭も無い。
 驚異的な回復力をもつ自分の身体は、あっと言う間に痛みを忘れる。何の問題も無い。
 ふと、昨日、弟が私の部屋から走り去った事を思い出す。
 弟の気持ちは、痛い程に解る。
 解るのだが…。
 …いや、もしかしたら、解っていると思い込んでいるだけなのだろうか。私が、考えている以上に、弟の傷心は大きいのかもしれない。
 正直、死ぬのは恐いと思う。けれど、生き残った方も悲痛な想いだろう。泣き虫で、優しい弟には、荷が重過ぎるのは、重々承知だ。
 しかし、他に選択肢というものが、無い。
 私は、今日の分の薬を飲むと、またベッドの上にうつ伏せになって、ぼんやりと考える。研究員に、文字通り叩き起こされたものだから、まだ思考が鈍い。
 弟はまだ、怒っているだろうか。
 昔の事を思えば、弟は、一度機嫌を悪くすると、私が謝るまでずっと、部屋に閉じこもっていた。
 謝りに行くべきだろうか。謝って・・・どうすれば…弟を納得させられるだろうか。
 もっと解り易く、この状況を、説明するべきか。
 私だとて、解らない事だらけなのだが。
 ここから出してもらえるという約束すらも、正直な所、疑わしいものではある。
 ふいに、ある研究員を思い出した。
 その研究員は、私の身体の手術を担っていた者で、憶測範囲ではあるが、恐らくこの人体改造実験の企画者。
 その研究員は、私が今あるこの姿にまで改造された日に、わざわざ私事で、私に会いに来た。
 会いに来て、床に両手を付き、頭を下げて。そして、言った。
 本当にすまなかった…と。
 こんな事をする為に、医学者や…工学者になったのではない…と。私の前で、まるで懺悔をしているかのようだった事を、覚えている。
 今更、何を言うのかと、思った。連日の手術による、体力の低下と、身体の痛みで、私は、何も言う事は出来なかったが。
 あの謝罪の言葉には、どんな意図があって、何の意味があったのかは、もう知れるはずもなく。
 研究員は殺された。
 私の目の前で、銃殺され、あっさりと処分された。
 これも、憶測の範囲でしかないが、この研究員も、この施設に捕われていたのではないだろうか。
 だとすれば。
 無理強いされて、研究に加担している者がいる可能性が、考えられる。
 味方は、敵の中にいるのかもしれない。
 しかし、それを見定めるには、困難だろうな。
 見定められたとしても、この施設から脱出する為に、協力してくれるとは、限らない。
 この施設は、厳重過ぎる。
 僅かに、反抗の素振りを見せただけでも、死ぬ事になる。
 私よりも、研究員たちは、この施設の恐ろしさを、知っているはずだ。
「起きているか?」
 突然、声がして、私は、部屋の出入り口へ振り向く。
 ひとりの研究員が部屋に入ってきた。私の手術や、実験検査の時には、必ず立ち合う、研究員のチームリーダーだった。
 何の、用事だろうか。
 私は、ベッドから立ち上がって、チームリーダーの前で、一礼した。
「身体の調子はどうだ?」
 いつもと変わらぬ、淡々とした口振りで、チームリーダーは、訊いてきた。
「平常です」
 私が短く答えると、研究員は頷いた。
「昨日、ここにアレが来たそうだな?」
 眉を顰めて、チームリーダーが問う。
 アレとは、弟の事だろう。
 目敏い男だな。会議で忙しいというのに、見ていたのか。それとも、噂で聞いたのだろうか。
 とにかく、弟の事を勘ぐられては、面倒だな。
「ええ、私の様子を伺いに、来たようです」
「数年ぶりの再会で、話でも盛り上がったか?」
「いえ、泣かせてしまいました」
「ほう」
 チームリーダーは、口の端を上げた。
「弟を泣かせるとは、悪い兄だ」
「弟ではなく、私の敵ですから」
「良い心構えだ」
 私が、嘘を言うと、チームリーダーは、笑みを濃くした。
 もう一押し、言っておくとするか。
「本当に…シンセに勝ったら、この施設の外へ、出してもらえるのですか」
「ああ、好きな所へ帰ればいい」
「絶対に、勝ちます」
「そうだ、あんな薬漬けの人間に、お前が負けるはずがない」
 薬漬けとは、言ってくれるな。
 弟を、そんな目に遭わせたのは、貴様たちではないか。
 腹立だしくなる気持ちを抑えて、私は、頷いた。
「死ぬ気で戦え。もし負けて、一命を取り留めたとしても、自我が残らんほどに造り替えるからな」
 そのような、脅しに、乗るものか。
「ええ。そうならんよう、努めます」
 チームリーダーは、私の返事に、満足したらしく、「期待しているぞ」と言葉を残して、部屋を去って行った。
 返事はしたが、私は、チームリーダーの言葉に、引っ掛かるものを、感じていた。
 ・・・何だ。違和感を感じる…。

4日目

2007/01/03

約束の承諾

 定時に目が覚めて、僕はベッドから下りた。
 机の上にある栄養剤を飲んで。その残りの数を見て、思わず目を細めた。
 これが無くなる日にには、兄と戦わなきゃいけない。
 そんな事、絶対に嫌だ。
 もう一度、兄と話をしてみよう。
 一昨日は、頭に血が上って、兄との話を蹴ってしまったけど。
 今度は、ちゃんと話してみようと思う。
 昨日、11区の女の子と会って、その後、12地区を歩き回ってみた。
 ここから逃げようだなんて、馬鹿げた考えかなぁ。
 ここから逃げ出して、普通の暮らしに戻るなんて、無理な話かなぁ。
 兄は、どう思うだろうか。
 僕は部屋を出て、兄の部屋へ向かった。
 今日は、廊下を行き来している研究員は少なめだった。早足で廊下を進んで、階段を下りて、兄の部屋まで来るのに、あっと言う間だった。
 兄の部屋に入ってみると、兄はまだ寝ているみたいで、ベッドの上でうつ伏せになって静かに呼吸をしている。
 昔から、兄は朝起きるのが遅い。いつも僕が起こしてたっけ。
 何だが懐かしい感じがして、少しだけ嬉しくなった。
「兄さん、起きて」
 肩を揺すってみるけど、なかなか起きてくれない。低い声を漏らして、カシャカシャと骨組みの翼が動く。
「兄さん、兄さんってば」
 さっきよりも大きな声をかけると、兄は身体を起こして薄目を開けた。
「おはよ」
 兄が起きたのを確認すると、僕は兄の肩から手を離して立ち上がった。
「ああ、おはよう…。……何…だ」
 兄は、機嫌が悪い訳でも無いのに、起き立てはいつも目付きが悪い。…いつも悪いかもしれないけど。
 でも寝ぼけていないだろうから、僕は話を始める事にした。
「昨日、ずっと考えてたんだ」
 こんな所にいたって、辛いだけだから。
 僕たちは、普通の人間じゃ無くなってしまったけど。…だからこそ、出来ると思う。
「一緒に逃げよう! そうしようよ、兄さん! 僕たちの力なら、研究員や警備兵くらい、どうって事無いよ!」
 兄の手を握って、自分の意志を伝えた。
 でも、兄は苦い顔を浮かべた。
「落ち着け、シンセ」
 僕の手をそっと離して、兄は目を伏せた。
「逃げると言っても、並み大抵の事ではないぞ。私もお前も、つい最近に、部屋から自由に出られるようになったばかりだ」
「そうだけど…」
「この場所の広さも、見当がつかない」
「知ってるよ。昨日、12区を歩き回ってたんだ。そんなに広くは無かったよ。三階までしかなかった」
「それは、12区だけの話だろう。ここは、12区と名が付いているのだから、他に、11区もの場所がある訳だ。いや、可能性的に、12区以降の地区も、存在しているかもしれん。それらが、必ずしも、この12区と同じ広さとは、限らない」
「でも…」
「よく考えてみろ。窓を、見た事があるか」
「窓? 見た事は無いけど…?」
「ここは地下である可能性も考えられる。地下でなければ、建物の端にでも行けば、外へ出られるだろう。例え、何十階もの高さであっても、今の私ならば、お前を抱いて飛び下りるくらい容易い、何の問題も無く、降りられる。…だが、地下であれば、そうはいかない。端に、追い詰められたら、終りだ」
「……」
 兄の言葉が、あらゆる可能性を並べる。
 僕では、到底考え付かない事を教えてくれる。
「地下だとしたら、一階に上がるまで、外へは出られない。出られたとしても、そこが地上とは限らない。こんなに危険な、人体実験ばかりしている施設だ。普通の立地条件にあるとは、思えない」
 兄の話を聞くにつれて、血の気が引いた。
「この施設は、完璧なまでに厳重だ。シンセは、管理者という名を、聞いた事があるか」
「ううん、無いよ。…誰なの?」
 管理者。研究員たちよりも上の人なのかな。
「実験体たちを、監視している者らしい。この管理者が、全ての実験体の生命を、握っているそうだ」
「どういう事?」
「詳しい事は解らないが、実験体の身体には、管理者の一部が埋め込まれていて、管理者はいつでも、実験体を破壊できる」
「そんなの…信じられないよ」
 管理者って、恐い人…。人間…じゃないのかな。
 僕の身体にも入ってるんだろうな。どこだろう…。
「私だって、信じたくはない。だが、事実だ。以前、研究員に、その様を目の前で、見せてもらった事がある」
 そう言いながら、兄は、顔を逸らせた。
「実験体は、機械に蝕まれて死んだ。まるで単細胞生物のように動く、機械の塊だった。完全に機械に飲み込まれた後は、ただの小さな鉄の塊になった」
 恐いものを見たように、一瞬だけ兄の瞳が揺れた。
「管理者が、何者なのかは知らんが、下手な事はできない」
 その言葉が言い終わる寸前に、兄は、僕を抱き寄せた。
 突然の事で、少し驚いたけど、僕はそっと兄に身体を任せた。
「私は、お前も私も、犬死になどにはしたく無い。だから、確実な方法を、選びたいんだ」
「僕が、兄さんを…?」
「そうだ、そうしてくれ。私は、この身体では外へ出られても、まともには暮らしていけない。身体の装置に不備が生じれば、私では、直せない。どの道、私は、生きていけないんだ」
「兄さん…」
 兄の声が震えているのが解った。
 ごめんなさい。
 本当だったら、僕が兄のようになるはずだったのに。僕の代わりに…。
 きっと兄は、それでも、僕がひとりになってしまう事を気に病んでるんだろうね。
 僕は、兄を抱き締め返して、目を閉じた。
 兄の言う通りに…、そうしよう。
 きっと、もうこれが最後の約束になるんだろうね。
 兄は、腕に少しだけ力を入れたみたいだった。
 それからすぐに、ゆっくっりと腕を解いた。
「シンセ。もう、これ以上は、会わない方がいい。お互い、辛くなるだけだ」
 悲しそうに笑って、兄が言った。
 きっと、それが精一杯だったんだろうと思う。
「・・・うん…」
 僕も笑顔にしようと思ったけど、駄目だった。
 まばたきをしたら、涙が出そうで。
 僕は頷いて、兄の部屋を出た。





約束の要求

 誰か、遠くで呼んでいる気がする。
 誰だ。
 心地よいような、懐かしい感覚…だな。
 眠い…。
 声を掛けられる耳と、ゆっくりと揺すられる身体。
「兄さん、兄さんってば」
 散漫だった意識が、急速に集約して、私は身体を起こす。
 目を開けると、弟が微笑んだ。
「おはよ」
 弟は、軽く挨拶して、私の肩から手を離して、立ち上がった。
「ああ、おはよう…。……何…だ」
 挨拶は返したものの、まだ、この状況の整理がつかずに、弟を見上げた。
「昨日、ずっと考えてたんだ」
 一昨日の、感情的になってしまった自分を恥じているのか、弟は少し決まりが悪そうな笑顔で言った。
「一緒に逃げよう! そうしようよ、兄さん! 僕たちの力なら、研究員や警備兵くらい、どうってこと無いよ!」
 私の手を握り、弟は必死の様子で言ってきた。
 何を考えたのかと思えば、これは、随分と大胆な考えに、行き着いたものだ。
 しかし、軽率すぎる。
「落ち着け、シンセ」
 私は、弟の手を、そっと離した。
「逃げると行っても、並み大抵の事ではないぞ。私もお前も、つい最近に、部屋から自由に出られるようになったばかりだ」
「そうだけど…」
「この場所の広さも、見当がつかない」
 私が言うと、弟は、はっとして、目を大きくした。
「知ってるよ。昨日、12区を歩き回ってたんだ。そんなに広くは無かったよ。三階までしかなかった」
「それは、12区だけの話だろう。ここは12区と名が付いているのだから、他に、11区もの場所がある訳だ。いや、可能性的に、12区以降の地区も存在しているかもしれん。それらが、必ずしも、この12区と同じ広さとは、限らない」
「でも…」
「よく考えてみろ。窓を、見た事があるか」
「窓? 見た事は無いけど…?」
「窓が無いという事は、ここは地下である可能性がある。地下でなければ、建物の端にでも行けば、外へ出られるだろう。例え、何十階もの高さであっても、今の私ならば、お前を抱いて飛び下りるくらい容易い、何の問題も無く、降りられる。…だが、地下であれば、そうはいかない。端に、追い詰められたら、終りだ」
「……」
「地下だとしたら、一階に上がるまで、外へは出られない。出られたとしても、そこが地上とは限らない。こんなに危険な、人体実験ばかりしている施設だ。普通の立地条件にあるとは思えない」
 私の話に、弟は段々と、顔を青ざめさせた。
 やはり…。
 弟は、考えていた範囲が、狭かったらしい。
 昔から、考えるよりも、行動する方であったからな。勇敢と言えば、聞こえは良いかもしれんが、少々、無計画だ。
「この施設は、完璧なまでに厳重だ。シンセは、管理者という名を聞いた事があるか」
「ううん、無いよ。…誰なの?」
「実験体たちを、監視している者らしい。この管理者が、全ての実験体の生命を、握っているそうだ」
「どういう事?」
 弟が、不思議そうな顔をする。
「詳しい事は解らないが、実験体の身体には、管理者の一部が埋め込まれていて、管理者はいつでも、実験体を破壊できる」
「そんなの…信じられないよ」
「私だって、信じたくはない。だが、事実だ。以前、研究員に、その様を目の前で、見せてもらった事がある」
 今でも、思い出すだけで、ぞっとする。
 研究員は、不必要になった実験体を処分するのに、パソコンで、指令を送っていた。たった、それだけしか、してはいなかったのだが。
「実験体は、機械に蝕まれて死んだ。まるで単細胞生物のように動く、機械の塊だった。完全に機械に飲み込まれた後は、ただの小さな鉄の塊になった」
 あの時の、実験体の苦痛の表情と、断末魔の叫びが、脳裏に焼き付いている。
 死際に、私に手を伸ばして、助けを求めた事も。
 研究員が、ほくそ笑んでいた事も。
 これは、何の悪夢なのかと、暫く寝付けない日が、続いたくらいだった。
「管理者が、何者なのかは知らんが、下手な事はできない」
 私は、目の前に立っている弟を抱き寄せた。
 もし、弟が、あの実験体のように、管理者に殺されでもしたら…。
「私は、お前も私も、犬死になどにはしたく無い。だから、確実な方法を、選びたいんだ」
「僕が、兄さんを…?」
「そうだ、そうしてくれ。私は、この身体では外へ出られても、まともには暮らしていけない。身体の装置に不備が生じれば、私では、直せない」
 弟の、今にも泣き出しそうな顔を見て、これ以上言うのが辛くて、私は、締まるような喉の痛みに堪えた。
「どの道、私は、生きていけないんだ」
「兄さん…」
 弟は、それ以上は何も言わず、私を抱き締め返して、目を閉じる。
 私は、それを了承の意と捉えて、弟を抱いている腕も力を、少しだけ強めた。
 その後、すぐに腕を解いて、弟へ、笑顔を向けたつもりだったが、失敗したかもしれない。
 目が合った、弟の目には、涙が浮かんでいた。
「シンセ。もう、これ以上は、会わない方がいい。お互い、辛くなるだけだ」
 当日迄、もう会わない方がいい。
「・・・うん…」
 弟は、詰まるような声で、頷いて、部屋を出て行った。
 もうとっくに、弟の姿の無い、部屋の出入り口を見詰めたまま、私は深く息を吐いた。
 私も、始めは弟と同じように、逃げる事を、考えてみた。
 だが、薄い望みすらも、管理者という存在に、可能性をゼロにされた。
 いっその事、2人で…とも考えたが、愚かしい事ではないか。
 …本当に、これで良かったのだろうか。

5日目

2007/01/03

意外な人

「あ…」
 栄養剤を飲み込もうとして、僕は手を止めた。
「戦士君、久しぶりだね~」
 そう言いながら、赤と灰色の服を着た銀髪の人が部屋に入って来た。
「お久しぶり…です…」
 ずっと前に一度、この部屋に来た研究員だ。
 薬の作用に我慢が出来なくなって、死んだ方が楽になれるかな…なんて、考えてた時に励ましてくれた、優しい人。
 僕の事を戦士君って呼ぶけど、僕はそんなに格好良くないんだけどな。
 この人の名前は…ええっと…。
「ジェノサイドだよー」
 にっこり笑って、ジェノサイドさんが答えた。
「ごめんなさい…。名前、覚えてなくて」
「いいってばー。一回くらいしか、話した事なかったからね~」
 ジェノサイドさんは、軽い足取りで僕の前まで近寄って来た。
「ねぇ? ちょっとお話ししてもいーい?」
「あ…、はい」
 僕は手に握ったままになっていた栄養剤を一気に飲み込んだ。
 話って何だろう。
 話をするのはいいけれど、せっかく来てくれたのに、立ち話するのも失礼だとは思うんだけど。この部屋に椅子なんて無いし…。
 座れそうなものと言えば、ベッドくらいで。
「ごめんなさい、椅子が無くって…。ここで良ければ」
 ベッドを指差すと、ジェノサイドさんは、くすっと笑った。
「そんなに気を使わなくていいよ~。あ、でも話が長くなりそうだから、遠慮無く座らせてもらっちゃうね~」
 そう言って、ちょこんとベッドの端へ座った。
「話って、何ですか?」
「戦士君、お兄さんに会った?」
「はい。4日くらい前に久しぶりに会って、それから、時々会いに行ってました」
「お兄さん、何か言ってた?」
 何だろう。どうして、そんな事を聞くのかな。
 もしかして、僕たちの事を疑ってるのかな。本気で戦う気なんて無いから…。でも、ジェノサイドさんは、僕たちが戦う事を知らないかもしれない。
 どう答えよう。
「何かって言われても…」
「あはは、そうだね。質問が漠然としてるよねー」
 ジェノサイドさんは、苦笑いを浮かべた。黄色いゴーグルを付けているから、どんな顔してるのか見えないけど。
「12区の研究員たちが忙しくしてるみたいだから、君たちの事で、何かあったのかと思ったんだー」
「それは、僕と兄さんが戦うからだと思います」
「戦う? 戦士君と悪魔君が? えー、そうなの~?」
 驚きにも残念にも聞こえる声で、ジェノサイドさんは言った。
「ジェノサイドさんは、この事、どう思いますか?」
「君たちが戦う事? …そうだねー」
 ジェノサイドさんは深く考えるように少しだけ顔を下げて、それから、僕の方を向いた。
「無理だね。君に、お兄さんは殺せない」
 答えはあっさりしたものだった。
「それは、僕が兄さんよりも、弱いと思って…」
「そうじゃないよ~」
 ジェノサイドさんは、肩を竦めた。
「君のお兄さんも、君を殺せない。だって、お互いの事が大事なんでしょ~?」
 まさか、知られてるんだろうか。でも、僕たちが戦う事を知らなかったみたいだし。
「他の研究員には、絶対にナイショにしてあげる。だから、僕にだけ教えて」
 ジェノサイドさんが、子供みたいに立てた人指し指を口に添える。
「君たち、本当は戦う気なんか、無いでしょ」


 この人は…ジェノサイドさんは、きっと信じても良い人だと思う。
 だから僕は、戦う事、勝ったら施設の外へ出してもらえる事、兄さんとの約束の事を話した。
 ジェノサイドさんは、親身になって話を聞いてくれた。
「そうだったんだ。そんな話が…」
「はい」
「ヒドイ事考えるなぁ。自由をエサに、君たちが本気で戦うと思っているんだよー」
「ジェノサイドさん、僕は本当に兄さんと戦いたくないんです。でも兄さんは、僕に勝てと言うんです。勝って、自由になってくれって。僕は、どうすれば…」
「うん。そうだね。戦士君は、素直で優しいね~。お兄さんは不器用に優しいから、そういう事を言うんだろうねー」
 ジェノサイドさんは、ふふっと笑った。
「君たちの想いの深さに気付かない、研究員たちの誤算だね~。だから、兄弟を使うのはやめた方がいいって言ったのに…」
「え…?」
 ジェノサイドさんの言葉に、どきっとした。
「ジェノサイドさん…、僕たちがここに来た時に…?」
「そうだよー。施設の外から連れて来られる人や、動物は、必ず11区の回廊を通るからね。11区には、大掛かりな身体検査室があるから、最初、皆その部屋で病気の有無とか血液検査とか、されるんだよ。そこで各地区の研究員のリーダーたちが、気に入った人間や動物を自分の地区に連れ帰って、実験に使うんだよ」
 ここに来た時の記憶なんて、もう殆ど消されてしまったけど、大きな部屋に行った事はイメージ的なもので覚えていた。
「まぁね~、兄弟…しかも双子を使った方が、実験結果の差を調べるのに都合がいいんだろうね~」
「その…実験というのは、新薬の開発ですか?」
「うん。当りだよー。それは君の方だね。でも、正確に言えば、見た目を変えずに薬でどれくらい人間が強化できるかってトコロかな。その薬の開発も兼ねてね」
 そう言いながら、ジェノサイドさんは、僕の顔をそっと覗くように顔を近付けた。
「薬の副作用、大変だったでしょ? 僕ね、君たちの実験の企画書をこっそり見たんだけど、副作用が酷い薬ばかり使ってたみたいだから…。その副作用を抑える薬も多量に使ってたみたいだけど。数日間、呼吸困難になってた時もあったでしょ~? 高熱が続いた時も」
 少し悲しそうな声で、ジェノサイドさんは、言い当てた。
 この人は、色々な事を知ってるのかな。
「君のお兄さんの方は、薬じゃなくて工学力で人間を強化する事が目的みたい。それなら、いっそ、人造人間でも造ればいいのに、どうして人を使うんだろうって、思うでしょ~? 君たちの実験の企画者の人はね、薬学と工学の真髄が何とかって、言っててねー。難しい事言ってたけど、忘れちゃったなー。その人は、医学と工学と薬学の権威を持つ天才だったんだけど、自殺しちゃったって報告書に書いてあったんだ」
 その企画者が、僕たちをこの実験に選んだと言う事なんだろうか。
「そんな…、その人は…」
 だとしたら…。
「死んだんです…か…?」
 憎むべき人は、もういない。
「僕は…いつか、その人を、刺し違えてでも…殺そうと思っていました…。僕たちの事、こんな目に遭わせた、その人が、憎い…です」
「……」
「ここには、研究員がいっぱいいるから…。誰が悪いかなんて…解らなくって。きっと、研究員たちも、上の人の命令で、こんな事をしてるんだろうって思って…。だから…っ…」
 悔しいという気持ちにすらなれなくて、僕は涙が出そうになった。
「偉いね、我慢してたんだね」
 ジェノサイドさんは、僕の頭をぽんぽんと触った。
「君の想いは良く解ったよ~。僕が、解決法を見つけてあげる。これから、お兄さんの所にも行ってみるね。お兄さんの考えも、知りたいからねー」
 立ち上がって、ジェノサイドさんは、部屋の出入り口へと向かった。
「あの…、ジェノサイドさん」
「なぁに?」
 首を傾げて、ジェノサイドさんが振り返った。
「あなたは、研究員なのに…どうして…?」
「僕もね、君たちと似たようなものだから」
 そう言い残して、ジェノサイドさんは部屋を出ていった。




思わぬ人

 残り2日分となった薬を飲み込んで。
 ちょうど、その時だった。
 部屋に入って来たのは、赤と灰色の服を着た、銀髪の男。
 この人は、散々な実験続きに耐えかねて、命を絶とうと考えていた私に、弟が生きている事を教えてくれた研究員だった。詳しい事は知らないが、11区の博士らしい。何故、私に会いに来るのか、理由は知らない。
 研究員という者は、自分が受け持つ実験以外のものには、興味が無いのだと思っていたが、この人は、どうも違うらしい。
「久しぶりだね~、悪魔君」
 黄色いゴーグルで、どんな目をしているのかは解らないが、口元に笑顔を浮かべる。
 悪魔と呼ばれるのは、正直な所、好ましくは無いが、番号で呼ばれるよりは、アダ名のような感覚で、幾分かは親しいような気がした。
「ジェノサイド博士、お久しぶりです」
「あ、名前覚えててくれたんだ。嬉しいなー。…あー! この手、どうしたの~?」
 ジェノサイド博士は、私の鋼鉄の手を見るなり、握ってきた。
「これは、実験の事故で…」
「そうだったんだー。可哀想に。僕だったら、もっと人の手にソックリなのを造れるのになぁ~。君の所のチームは、他の作業が雑だよねぇー。もっとキレイなの僕が造ってもいいように、交渉してあげよっか?」
「いえ…。お言葉だけで、十分です。何も、不自由な事など、無いですから」
「嘘」
 私の言葉に、ジェノサイド博士は、短く言い放った。
「こんな…。こんな所で、不自由じゃないわけ無いでしょ~? 君は、とても賢いよ。どんな実験されても扱いを受けても、温和しくしてるし従順でいる」
「……」
 この人は、何が言いたいんだ。間の抜けたような態度と口調で、全く読めない。
 私の本心を、探っているつもりか。
「研究員たちも、君を信頼している。結果も優秀で文句も言わない、暴れず、逃げ出さないと思ってるからねー」
 軽く首を傾げ、薄く笑顔を浮かべるこの博士を、私は黙って見ていた。
 下手にこちらから、何か言い出すのは、まずい気がした。
「ここに居て、楽しい?」
 何を言い出すのかと思っていれば、愚問だ。
 肯定する気は無いが、否定すれば疑われるだろうか。
 質問を回避するしかないな。
「私には、その質問に答える権利は、ありません」 
「どうして~?」
「飼われる者に、飼い主を選ぶ権利があると、お思いですか」
「あはは、そうかもね~」
 ジェノサイド博士は、苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、質問を変えるねー。この施設から、出たい?」
 また、そんな質問を…。
「こんな身体で、ここから出て、普通に暮らしていけるとでも、お思いですか」 
「もー、そうやって、質問をはぐらかすんだから~」
 ジェノサイド博士は、私のすぐ前まで来て、顔を近付けてじっと私を見た後、ベッドの端に座っている、私の隣へ座った。
「ねぇ~、コレ、人工脊髄? コレの神経をを使って、翼を動かしてるの~?」
 私の、背骨の当りに触れながら、ジェノサイド博士が訊いてきた。
 自分の身体が、何をどうされたのかなど、私は、知らない。
「私には、解りません」
「この頭に付けてる装置は、外せるの?」
「ええ。半日の間、外していると死ぬと聞いていますが」
「ふぅ~ん。じゃあ、きっと身体も動き難くなるんじゃない~?」
「ええ、そうです。…私の欠陥でも、お探しですか」
「あー、すぐそうやって、皮肉を言うんだから~。君の欠陥を知ってたって、僕には何のメリットも無いじゃない」
「そうですね。貴方は、11区の、博士ですから」
「トゲを感じるよぅ…。可愛く無いなぁ、悪魔君は。…えぇっとね、多分、君の脳の命令を、その頭に付いてる装置が受け取って、そこから、人工脊髄を通して翼を動かしてるんだろうねー。う~ん。かなり難しい手術したんだなー。でも、もっと難しい手術すれば、外せるよ~?」
 何を、言い出すんだ、この人は。
 2年以上の期間をかけての、大きな手術をしたというのに、僅かに触れただけで、解るものか。
 この装置を外せるなど…。そのような事は、まず不可能だと、研究員が言っていた。
「面白い、冗談を…」
「あー、信じてくれないの~?」
 ジェノサイド博士は、頬を膨らませて、口を尖らせた。
「君は、なかなか本心を言ってくれないんだもん。僕の事、信用してよー。ずっと前に、弟君が生きてるって、教えてあげたのだって、本当だったでしょ?」
「ええ、感謝しております。しかし、感謝の念と信頼は、別物ですから」
「君から信用を得るのは、ひと苦労だな~。弟君がひとりだけ出られたとしても、上手く生きていけるか心配でしょー?」
 ジェノサイド博士の、この言葉に、心臓が高鳴った。
 まさか…。
「何故…。シンセが…言ったのですか」
 ジェノサイド博士の言い振りからして、弟が、戦闘の事から出る計画まで、全て話したのだと知れた。
「そだよ~。素直で、可愛い子だよねー」
 真剣味の全く無い台詞と、緊張の全く無い態度で、ジェノサイド博士が笑う。
 私は、目を細めて、ジェノサイド博士を睨もうと思ったが、すぐにやめた。
 多分、大丈夫なのかもしれない。
 弟は、昔から何故か、人を見る目があった。
 その弟が、話したという事は、それなりに信頼できる人物だという事になる。
「大丈夫。普通の人と全く同じとまではかないけど、ある程度は元の身体に戻せるから」
 ジェノサイド博士は、急に人が変わったかのように、真剣な声色に聞こえた。
「僕なら、その悪魔の翼を取り去る事くらい、簡単なんだから。僕って、頭いいからねー。脳神経に繋がれた人工脊髄なんて、パパっと、切り取っちゃえるよー。臓器の再生だってできるんだ。えへへ、すごいでしょ~?」
 ふざけているようにも思える言い振りなのに、その言葉は、とても重く聞こえた。
「貴方は…、本当に…」
「うん、信じてくれた~? 君は、自分の身体の事を気にして、施設の外に出たがらないみたいだったからねー。本当は、出たいでしょ? 弟君と一緒に」
 ジェノサイド博士は笑顔を浮かべた。
「君は、研究員を上辺だけ受け入れて、本当は絶対に心開いて無いでしょ? そんな君の本心が知りたかったからねー。味方は、敵の中にいる。だから、相手を慎重に見極めたいっていう気持ちは解るよ~。僕も、そうだからねー。僕から見れば、君たち実験体が仲間になる可能性が高いから」
 私の、心を見抜いた。
 敵わないな、この人には。
 立場は違うが、考えは同じという事か。
「僕にもね、仲間が必要なんだ、ここから出る仲間がね。だからこうして、施設中の実験体たちに会いに出歩いてるんだよ~。研究員に完全に言いなりになってる実験体とか、狂っちゃってるのじゃあ、ダメだからねー」
 この人は、本気で、この施設から、出ようとしている。
 しかし、本当に、この厳重な施設から、出られる事が出来るのだろうか。
「この施設から出る、勝算は、あるのですか」
「うん、あるよ」
 ジェノサイド博士は、自信があるかのように、はっきりと、答えた。
「まだ先の話だけどねー。もう少し、時間が必要なんだ」
「しかし…。私には、時間が…無いんです」
 私は、弟と戦わなくてはならない。
「うん。それも解ってる。弟君との戦闘の事でしょ~?」
 そう言いながら、ジェノサド博士は立ち上がった。
「弟君と戦う日は、明後日だよね。ごめんね、僕も今日は、あまり時間が無いんだ。解決策を考えて、明日また来るからね~」
 ジェノサイド博士は、ひらひらと手を振って、出入り口へ向かう。
「待って、下さい」
 私は、呼び止めた。
「んー? なぁに?」
 あどけない少女のように、ジェノサイド博士は、振り返って、首を傾げる。
「何故、貴方は…、私たちに、そんなに協力的なのですか。この施設の研究に、嫌気が差したという事ですか」
「あはっ」
 私の問いに、ジェノサイド博士は、自嘲にも似た、短い笑い声を上げた。
「僕もね、実験体なんだよ~。上位研究員の権限を持った、実験体。君も、ここから逃げようよ。ね?」
 そう言って、笑顔を見せながら、ジェノサイド博士は部屋を出て行った。
 信じられないその言葉に、私は暫し何も考えられずにいた。

前日

2007/01/15

想い想われ

 栄養剤を飲んだその後、僕は落ち着けなくて、狭い部屋を歩き回っていた。
 足音がして、出入り口の方に振り向く。
「戦士君、起きてる~? 僕だよ、ジェノサイドだよー」
 半分開けっ放しの部屋のドアを、ノックしながら、ジェノサイドさんが顔を出した。
 そのすぐ後ろから、黒い骨組の翼が見えて、兄がひょこりと顔を出す。
 兄も、ジェノサイドさんと一緒に来たみたいだった。
「お待たせー。色々と調べてきたよ」
 ジェノサイドさんは、解決法を考えてくれたらしく、にっこりと笑った。
 小さな部屋は3人も入ると、とても狭くなった気がした。やっぱりまともに座れる場所もないから、僕を真ん中にして、3人並んでベッドに座る事に。
「明日の事だけどね~」
 最初に話を切り出したのは、ジェノサイドさんだった。
「いきなりで、ビックリするだろうけど~」
 ジェノサイドさんは、言い辛そうに低い声を出す。
「あのねー。戦って、生き残った方がこの施設から出してもらえるっていうのは、ウソだよ」
 その言葉に、僕はどきっとした。
「そんな…」
 兄が、目を大きくして、ジェノサイドさんの方を見る。
 手に冷たいものが触ったと思ったら、兄の手が、僕の手を握っていた。
 どうしたのかと思って、横目で兄を見たけれど、兄は目を伏せるように、ぼんやりと床に目線を落としているだけだった。
 兄は、何か考えているんだろうけど、僕には解らなくて、そのまま兄の手を握り返す。
「おかしいと思ってたんだよねー。だって、ここの施設は、研究員だって出してもらえないんだから」
 溜め息混じりに、ジェノサイドさんは、小さく言った。
「管理者君のデータには、この施設から出た、または出る予定の名簿があってねー。あるにはあるんだけど、名前なんてひとつも載って無いんだよね~」
 管理者。
 僕たち実験体を監視している人。
 本当に、この広い施設の、全部の実験体の事を知ってるのかな。
「管理者君は、『TOOL』の全てだよ」
 聞きたいなと思っていた事を、先にジェノサイドさんが答えてくれた。
 そして、部屋の壁を指差す。
「この建物の全てが『Electro Tuned』という名の子供の、ひとつの存在。僕たちは、管理者君の中で生きているんだよ~」
 言いながら、ジェノサイドさんは、兄の黒い骨組みの翼を掴んで、その硬く鋭い羽先で、部屋の壁を引っ掻いた。
 引っ掻いた痕が、壁に残る。
「傷すらも、修復するんだよ。だから、破壊して脱出するのも不可能」
 ジェノサイドさんが、そう言っている間に、壁の傷は、段々と浅くなって消えていった。
「信じられない…。こんな事…」
 まるで夢でも見てるみたいで、僕は傷の消えた壁を触ってみた。傷が付いていたなんて嘘みたいに、綺麗な元の壁に戻っている。
「この建物、生きてるんですか?」
 ジェノサイドさんを見上げて、訊いてみると、ジェノサイドさんは、肩を竦める。 「そうだねー、生きてるっていえば、そうなのかもしれない。ナノマシンっていう、小さな小さな機械が集まって出来てるんだよ~」
「そのナノマシンというものは、私たちの身体にも、入っているものですね」
 ジェノサイドさんの話に、兄が確信をもっているように言い足した。
「あはは。それ、機密レベル4の情報だよ。良く知ってるねー。管理者君自身は知らないみたいだけど、こっちからパソコンやメインコンピュータの操作すると、管理者君を通して、実験体を破壊できるんだよ~。そのプログラムのパスワードは、さすがに僕も知らないけどねー」
 自分のうなじの辺りを撫でながら、ジェノサイドさんは、小さく溜め息をした。
「実験体だけじゃないよ。研究員たちにも、入ってるんだ。ここら辺に…埋め込まれたんだけどねー。血管を通って移動したりするから、摘出は難しいんだよね~。無理に出そうとすると反応して、増殖して遺伝子破壊されちゃうし…」
 ジェノサイドさんは、深く息を吐いた。
「管理者君が憎いかもしれないけど、そうは思っちゃダメだよ~? 管理者君も、君たちと同じ実験体だから。ただ、完成体の実験体なだけ。『TOOL』の全てを知っているのに、何も知らない子供なんだよね~」
 肩を震わせながらくすくすと笑った後、ジェノサイドさんは、液体の入ったガラス瓶と注射器、薬を出した。
「これねー。君たちにね、渡すものなんだ~。戦士君には、こっちの薬だよ~」
「え? これ、何の薬ですか?」
 薬を4つ渡されて、僕はジェノサイドさんを見上げた。
 渡されたのは、割線の入った真っ白な薬。
 何の薬だろう。大きめの薬だな。
「調べてたら解った事なんだけどー。戦士君が飲んでた薬にね、依存性の高いのがあってね。いきなり飲むのやめちゃったみたいだから、ショック症状が出るはずだよ。それ、飲んでおけば大丈夫だから」
「そうだったんですか! 知らなかった…。ありがとうございます!」
 ジェノサイドさん、ここまで気を使ってくれて、嬉しいな。
 大きめの薬だったけど、このくらいなら水が無くても飲み慣れてるから、僕はささっさと薬を飲み込んだ。
「はい、悪魔君には、これね~」
 今度は兄の方を向いて、ジェノサイドさんは注射器を持った。
「何故、注射なのですか…」
 兄は、明らかに困惑したような表情をする。
「背中の人工脊髄がね、肩の神経を圧迫してるみたいだったから。軽い神経痛になってるでしょ~?」
「そこまで、解るのですか」
 僅かに、首を傾げる兄。
「これ、背中に注射しておけば、楽になるからね~。はいはい、後ろ向いて~」
 ジェノサイドさんは、立ち上がって兄の前に立ち、背中を向けるように手をひらひらさせて促した。
 兄は、きっと嫌なのかもしれない。翼を小さく折り畳んで、のろのろとした動作でジェノサイドさんに背中を向けた。
 僕の方からでは良く見えなかったけど、注射はすぐに終わったみたいだった。
「えへへ~。痛く無かったでしょ。僕、上手いからね~」
 えっへん…という言葉が似合うみたいに、ジェノサイドさんは、いっぱいの笑顔を見せた。
「ええ…」
 いつもより目を大きくして、兄が呟く。とても驚いているようだった。
「兄さん、ジェノサイドさんって、すごいね!」
「ああ…」
 やっぱり、驚いているらしい。気の無い返事にも思えるけど、これは兄が驚いて口数が減る性格だからだった。
「お話、戻すね~」
 ジェノサイドさんは、再びベッドの端に座った。
「生きるか死ぬかの戦闘だなんて言ってるけど、適当に戦って、決着が付かなければいいんだよ~」
「戦闘は、どちらかが、死ぬまで続くと、聞いていますが…」
 兄が、怪訝そうな顔をする。
「そう言っておけば、早く決着付けようとするとでも考えたんでしょ~。一応、3時間が制限時間になってるみたいだよー」
「そっか。その間、僕たちは時間を稼いでいればいいんですね」
「うん。その通りだよ~。3時間経っても勝敗が決まらなければいいんだよ。君たちは適当に攻撃し合ってれば、問題ないよねー。あ、でも、お互いに無傷なのも変だろうから、多少は血を見る覚悟で演技した方が、いいかもね~」
 僕が言うと、ジェノサイドさんは頷いて話した。
「兄さん、頑張ろうよ! 3時間なんて、僕たちがちっちゃい頃に喧嘩したのより短い時間だよ」
 僕は、兄の手を握り、笑顔を浮かべた。
 小さい頃、下らない事で良く喧嘩してた。酷い時は2日くらい口も聞かなかった時もあったっけ。
「喧嘩か。何年ぶりだろうな」
 くくっと笑う兄。少し困ったような照れた顔をした。
「ジェノサイドさんって、色々な事を知ってるんですね」
「あはは。管理者君のデータを、こっそり調べてるんだよ。管理者君は、何でも記憶してるからねー」
 ジェノサイドさんは、頭を掻きながら答える。
「あー! もうこんな時間!」
 突然、ジェノサイドさんは、懐中時計を見て立ち上がった。
「ギガ君と約束してるんだった! 遅刻したら殴られちゃう~。ごっ…ごめんね! 僕、もう帰らなきゃ!」
 大慌てで出入り口へと走るジェノサイドさんは、慌て過ぎたのか、出入り口の前で転んだ。
「大丈夫…ですか」
「ジェノサイドさん、大丈夫?」
 兄と僕が、倒れたジェノサイドさんに近寄ると、ジェノサイドさんは、むくりと立ち上がって埃を払う。
「大丈夫。僕は転び慣れてるからね~」
 元気に答えて、ジェノサイドさんは笑う。
「じゃあね、悪魔君、戦士君。明日、君たちの喧嘩を観戦しに行くからね~」
 そう言って、手を振りながら、ジェノサイドさんは、廊下を走って帰って行った。
「ありがとうございます」
 僕と兄は、同時に、お礼を言った。
「ジェノサイドさんって、いつも忙しそうだね」
「そのようだな」
 部屋に残った、僕と兄は、ベッドに座り直して、伸びをした。
「第11地区は、実験で忙しいのかもしれん」
「ジェノサイドさん、第11地区の博士だったんだ。僕、知らなかった…。忙しいのに、わざわざ来てくれてたんだね」
「今度会った時に、ちゃんと礼が言いたい」
 兄の言葉に、僕は黙って頷いた。僕も同感だった。
「兄さん。僕ね、ジェノサイドさんと一緒にいれば、大丈夫な気がするんだ。きっと、ここから出られると思う」
「ああ。お前が、信頼する者だ。間違い無いだろう」
 兄は優しく笑って、僕の頭を撫でてくれた。
「一緒に、ここを出て、静かに暮そうね」
「そうだな」
「僕、こんな身体にされた事、恨んでないんだ。恨んでも、仕方が無い事だって思う」
「お前は、優しいな。私は…、そんな気には、なれない…」
「ううん。そうじゃないよ。僕ね、本当に悪い人が、解らないだけなんだ」
「本当に悪い人…か」
 ぼんやりと目線を落とす兄。
「ああ、私も…解らないな…」
 兄は目を閉じて、呟いた。




想われ想い

 薬を飲んだ後、ジェノサイド博士が来た。
 弟のチームの方が、研究員が少ないからと、弟の部屋へ行く事になった。
「戦士君、起きてる~? 僕だよ、ジェノサイドだよー」
 半分開けたままの部屋のドアを、ノックしながら、ジェノサイド博士が、部屋を覗き込む。
 その後ろから、私も部屋の中を見ると、弟が笑顔で迎えた。
「お待たせー。色々と調べてきたよ」
 ジェノサイド博士は、解決法を考えてくれたらしい。自信あり気だった。
 小さな部屋は、3人も入ると、やたらに狭く感じる。当然と言うか、やはりと言うか、まともに座れる場所も無い。弟を真ん中にして、3人並んでベッドに腰掛ける事になった。
「明日の事だけどね~」
 最初に話を切り出したのは、ジェノサイド博士。
「いきなりで、ビックリするだろうけど~」
 ジェノサイド博士は、言い難そうに低い声を出す。
「あのねー。戦って、生き残った方がこの施設から出してもらえるって言うのは、ウソだよ」
「そんな…」
 私は、態度では驚いていたが、心では何となく、その事を察していた。
 やはり…。
 あの時の、チームリーダーと話していた時の、違和感の正体が解った。
 戦闘で、私が負けて生きていたとしても、身体を造り変えると脅してきたが、勝ったとしても、結局は、この施設から出してはもらえなかったという事か。
 汚いな。本当に、憎い奴らだ。
 危うく、弟を悲惨な目に遭わせる所だった。私を殺して、それでも、この地獄から出られなかったなどと、そんな最悪な事…。
 私は、無意識に、弟の手を握っていた。
「おかしいと思ってたんだよねー。だって、ここの施設は、研究員だって出してもらえないんだから」
 溜め息混じりに、ジェノサイド博士は、小さく言った。
「管理者君のデータには、この施設から出た、または出る予定の名簿があってねー。あるにはあるんだけど、名前なんてひとつも載って無いんだよね~」
 管理者…か。
 何者だろうか。
 弟も、眉を寄せて、考え込んでいるようだった。
 そんな私と、弟を見て、ジェノサイド博士は、口を開いた。
「管理者君は、『TOOL』の全てだよ」
 そう言って、ジェノサイド博士は、部屋の壁を指差した。
「この建物の全てが『Electro Tuned』という名の子供の、ひとつの存在。僕たちは、管理者君の中で生きているんだよ~」
 言いながら、ジェノサイド博士が、「ちょっと借りるね」と言い、私の黒金の翼を掴み、翼の先で、部屋の壁を引っ掻いた。
 壁の素材よりも、私の翼の方が、強度が高い。当然のように、壁に傷が出来た。
「傷すらも、修復するんだよ。だから、破壊して脱出するのも不可能」
 ジェノサイド博士が、そう言っている間に、壁の傷は、見る見る内に、消えていった。
「信じられない…。こんな事…」
 弟が、震える手で、傷の消えた壁を撫でる。
「この建物、生きてるんですか?」
「そうだねー、生きてるっていえば、そうなのかもしれない。ナノマシンっていう、小さな小さな機械が集まって出来てるんだよ~」
 弟の問いに、ジェノサイド博士は、軽く肩を竦めて、答えた。
 そうか。恐らくは…。
 私は、機械に蝕まれて死んだ、あの実験体の事を思い出した。
「そのナノマシンというものは、私たちの身体にも、入っているものですね」
「あはは。それ、機密レベル4の情報だよ。良く知ってるねー。管理者君自身は知らないみたいだけど、こっちからパソコンやメインコンピュータの操作すると、管理者君を通して、実験体を破壊できるんだよ~。そのプログラムのパスワードは、さすがに僕も知らないけどねー」
 自分のうなじの辺りを撫でながら、ジェノサイド博士は、小さく溜め息をした。
「実験体だけじゃないよ。研究員たちにも、入ってるんだ。ここら辺に…埋め込まれたんだけどねー。血管を通って移動したりするから、摘出は難しいんだよね~。無理に出そうとすると反応して、増殖して遺伝子破壊されちゃうし…」
 ジェノサイド博士は、一呼吸して、肩を下ろす。
「管理者君が憎いかもしれないけど、そうは思っちゃダメだよ~? 管理者君も、君たちと同じ実験体だから。ただ、完成体の実験体なだけ。『TOOL』の全てを知っているのに、何も知らない子供なんだよね~」
 くすくすと笑って、肩を震わせた後、ジェノサイド博士は、液剤の入ったガラス瓶と注射器、錠剤を出した。
「これねー。君たちにね、渡すものなんだ~。戦士君には、こっちの薬だよ~」
「え? これ、何の薬ですか?」
 錠剤を渡されて、弟は不思議そうな顔をする。
「調べてたら解った事なんだけどー。戦士君が飲んでた薬にね、依存性の高いのがあってね。いきなり飲むのやめちゃったみたいだから、ショック症状が出るはずだよ。それ、飲んでおけば大丈夫だから」
「そうだったんですか! 知らなかった…。ありがとうございます!」
 弟は、一礼して、大きな錠剤であるのに、慣れた様子で、その薬を飲み込んだ。
「はい、悪魔君には、これね~」
 と言って、ジェノサイド博士は、瓶に手際良く注射針を刺し、液剤を吸い上げた。
「何故、注射なのですか…」
 正直、注射は、好きでは無い。
「背中の人工脊髄がね、肩の神経を圧迫してるみたいだったから。軽い神経痛になってるでしょ~?」
「そこまで、解るのですか」
 常々、右肩が痛かった。もう、こういう身体なのだと、思っていたのだが。
「これ、背中に注射しておけば、楽になるからね~。はいはい、後ろ向いて~」
 ジェノサイド博士は、立ち上がって、私の前まで来ると、楽しそうに、手をひらひらさせた。
 温和しく背中を向けると、右肩の辺りに触れられて、その後、微かに痛みを感じて終わった。
 あっと言う間の事で、私は、振り返って、ジェノサイド博士を見上げた。
「えへへ~。痛く無かったでしょ。僕、上手いからね~」
 幼い子供が自慢するように、満遍の笑顔を口に浮かべる。
「ええ…」
 本当に、驚いた。注射というものは、こうも射す側の技術によるものなのか。
「兄さん、ジェノサイドさんって、すごいね!」
「ああ…」
 目を輝かせて、感激している弟に、私は、あまり実感の沸かない返事をしてしまった。それでも、弟は、気にした様子も無く、笑顔のままだった。
「お話、戻すね~」
 緊張感の無い言い振りで、ジェノサイド博士は、再びベッドの端に腰掛けた。
「生きるか死ぬかの戦闘だなんて言ってるけど、適当に戦って、決着が付かなければいいんだよ~」
「戦闘は、どちらかが、死ぬまで続くと、聞いていますが…」
「そう言っておけば、早く決着付けようとするとでも考えたんでしょ~。一応、3時間が制限時間になってるみたいだよー」
「そっか。その間、僕たちは時間を稼いでいればいいんですね」
 弟が、思い立ったように、ジェノサイド博士を見上げた。 「うん。その通りだよ~。3時間経っても勝敗が決まらなければいいんだよ。君たちは適当に攻撃し合ってれば、問題ないよねー。あ、でも、お互いに無傷なのも変だろうから、多少は血を見る覚悟で演技した方が、いいかもね~」
「兄さん、頑張ろうよ! 3時間なんて、僕たちがちっちゃい頃に喧嘩したのより短い時間だよ」
 弟が、私の手を握り、笑顔を浮かべる。
「喧嘩か。何年ぶりだろうな」
 おかしな事を言う弟に、私は喉の奥で笑った。この施設に来て、初めて笑ったかもしれない。
「ジェノサイドさんって、色々な事を知ってるんですね」
「あはは。管理者君のデータを、こっそり調べてるんだよ。管理者君は、何でも記憶してるからねー」
 弟の言葉に、ジェノサイド博士は、頭を掻いて、答えた。
「あー! もうこんな時間!」
 突然、ジェノサイド博士が、懐中時計を見て、立ち上がった。
「ギガ君と約束してるんだった! 遅刻したら殴られちゃう~。ごっ…ごめんね! 僕、もう帰らなきゃ!」
 急に慌て始め、出入り口へと走るジェノサイド博士。
 だが、出入り口をすぐ前にして、何も躓く物もないのに、盛大に転んだ。
「大丈夫…ですか」
「ジェノサイドさん、大丈夫?」
 私と弟が、ジェノサイド博士に近寄ると、ジェノサイド博士は、何事も無く立ち上がり、埃を払う。
「大丈夫。僕は転び慣れてるからね~」
 いや、そういう問題では無いのでは…。
 と、言おうとしたが、私は、黙っておいた。
「じゃあね、悪魔君、戦士君。明日、君たちの喧嘩を観戦しに行くからね~」
 そう言って、手を振りながら、ジェノサイド博士は、廊下を走って行った。
「ありがとうございます」
 私と弟は、同時に、礼の言葉を上げた。
「ジェノサイドさんって、いつも忙しそうだね」
「そのようだな」
 部屋に残った、私と弟は、ベッドに腰掛けて、伸びをした。
「第11地区は、実験で忙しいのかもしれん」
「ジェノサイドさんって、第11地区の博士だったんだ。僕、知らなかった…」
 弟が、目を丸くする。
「忙しいのに、わざわざ来てくれてたんだね」
「今度会った時に、ちゃんと礼が言いたい」
 本当に、感謝している。
 ニ度目に会った時に、皮肉な物言いをしてしまった事も、謝っておかねばと思う。
「兄さん。僕ね、ジェノサイドさんと一緒にいれば、大丈夫な気がするんだ。きっと、ここから出られると思う」
「ああ。お前が、信頼する者だ。間違い無いだろう」
 私が、弟の頭を撫でてやると、弟は、気持ち良さそうに、目を細めた。
「一緒に、ここを出て、静かに暮そうね」
「そうだな」
「僕、こんな身体にされた事、恨んでないんだ。恨んでも、仕方が無い事だって思う」
「お前は、優しいな。私は…、そんな気には、なれない…」
「ううん。そうじゃないよ。僕ね、本当に悪い人が、解らないだけなんだ」
「本当に悪い人…か」
 弟の言葉に、私は顔を伏せた。
 研究員が、無理強いをされて、研究をしているとしたら…。
 実験体や研究員を管理している、管理者という存在すらも、実験体だった…。
「ああ、私も…解らないな…」

最終日

2007/01/15

最後に最期で…

 空っぽになった、薬箱。
 2人の研究員に連れられて、僕は部屋を出た。
 向かった先は、初めて入る部屋だった。
 広い部屋。大勢の研究員たちが、2つの集団に別れてそれぞれ話し合いをしていた。
 きっと、あっちで集まっている研究員たちが、兄の実験を担当している研究員たちなんだろう。見慣れない顔の人ばかりだった。
「体調はどうだ?」
 研究員の1人が、訊いてきた。
「大丈夫です」
 僕は頷きながら答えた。
 身体は何ともない。いつも通り。
 ただ、気持ちだけが、落ち着いていないだけだった。
「お前なら勝てる。あんな機械混じりの悪魔人間に、お前が負けるはずが無いだろう?」
 酷い事をいうな…。
 兄は望んで機械の身体になったんじゃないのに。
 あっちの研究員たちの方を見ると、人込みの隙間から兄の姿が見えた。白衣の集団の中で、黒い姿はすぐに目に付いた。
 兄も、研究員と何か話しているようだった。
 別の研究員が近付いてきて、僕の腕を掴んだ。
 どうしたんだろうかと、研究員を見ると、あまり見慣れない顔の人だった。
「注射するからな」
「……」
 変だなと思ったけど、僕は黙って頷いた。
 今になって、何の薬を使うんだろう。
 その研究員は僕に注射した後、すぐに立ち去って人込みに紛れていった。




 広い部屋とはいえ、大勢の研究員の声が、騒音にしか聞こえない。
 弟の姿を見ると、弟は、研究員に、注射をされている最中だった。
 何故、今更、そんな事をするのか。
 注射器に入っている、薄い黄色の液剤に、見覚えがあった。
 あれは、確か、筋弛緩剤の一種ではなかっただろうか。
 何のつもりだ。
「気になるのか?」
 弟の方ばかり見ている私が気になったのか、チームリーダーが、私の腕を掴み、半ば無理矢理に振り向かせた。
「あんな薬漬けの、見掛けだけ人間の化物に、お前が負けるはずがない」
 随分な事を、言ってくれるな。
 貴様たちの罪の形を、隠したいだけだろう。姿こそ人間であれば、何でも良いと考えた、貴様たち研究員の、傲慢ではないのか。
「安心しろ。何があろうとお前を勝たせてやるつもりだ。勝ってもらわねば困る」
 チームリーダーは、私の腕を掴んだまま、手に持っていた、注射器の針を、刺す。
 その痛みに、私は、一瞬だけ、顔を顰めた。
「あちらのチームには、私の仲間がいるからな」
 黒い笑みを浮かべる、チームリーダー。
 その言葉に、嫌な予感がした。
「この薬は…」
 青い液剤の抜けた注射器が、腕から抜かれるのを見た後、私は、チームリーダーの顔を、見上げた。
「お前が勝てば、私が第12地区の主任だ」




 あっと言う間の事だった。
 広い部屋の真ん中で、明らかに正気じゃ無い兄と対峙して。
 兄に注射された薬の作用を知った。
 痺れるように、身体が動かないと気が付いて。 
 僕に注射された薬の作用を知った。
 僕たちが計画する前に、研究員たちは、こういう計画だったのかな。
「ごめん、兄さん…」
 知ったところで、もう遅かったし、どうしようもなかった。
 兄が身体を翻して、骨組みの黒い翼をハサミみたいに交差させた。
 がぞりと音がして、左脚を切り落とされた。
 意識も、はっきりしていなくて、痛くはなかった。
 これも薬のせいなのかな。
 バランスを無くして倒れた僕の上に兄が乗りかかって、低い声で呻きながら、今度は、僕の左腕を奪った。
 どこか苦しそうな、兄の顔を見て、とても辛かった。
「ごめんね…」
 どうしてか、謝らずにはいられなかった。
 力の入らない残った腕で、兄に抱き着いて。
 ゆっくりと、世界が真っ白になるのを感じた。
 夢に落ちるみたいな、不思議な感覚だった。




 大きな歓声が響いて、びくりと身体が震えた。
 広い部屋に、座り込んでいる自分。
 赤い血溜まり。
 倒れている弟を見て、私は、言葉を失った。息が詰まった。
 明らかに、自分がやったのだと、知れた。
 あの薬の所為…か。
「シンセ、シンセ…」
 弟の頬を、軽く叩いて、名を呼んだ。
 しかし、目を開けてはくれなかった。
 造られた手では、弟の体温が解らず、私は、咄嗟に弟を抱き上げて、自分の頬と、弟の頬を重ねた。
 …冷たい…。
「よくやった」
 チームのリーダーが、私に近付き、満足げな笑顔を見せた。
 私は力の限り叫んだ。
「悪魔君、研究員に手を出しちゃダメだよ!」
 遠くで、ジェノサイド博士の、制止の叫び声が、聞こえた気がする。
 それでも、止まれなかった。
 私は、チームリーダーに、飛び掛かった。
 倒れたチームリーダーの上に乗り上がり、その頭を、自分の両手で掴むと、あっさりと破裂した。
 半固体の潰れる音。どす黒い赤と、液体が飛散した。
 轟音のような、警報の音が、響き始めた気がする。
 その次の瞬間には、首筋に痛みを感じ、麻酔銃だと気付き、針を抜いて、立ち上がったが。
 すでに、警備兵に、囲まれ、身体のあちこちに、麻酔針を撃たれた。


 その後の、記憶は、無い…。




■後書き■

痛い話。ええ、痛い話です。
後味の悪い終わり方で、申し訳ない。
しかし、最初から、この結末を思いえがいていましたので、これで完結なんです。
勢いで作り上げたキャラと話ですけれど、うずしお本人は、結構気に入ってます。
この2人の兄弟は、本編小説の『TOOL』には登場しません。あくまで、脱線的なお話なので。
最終日の話は、書いてる自分が、辛くなってしまって、間の空いたような感じになってしまいました…。
自分で考えた話なのに、実際に書くとなると、ちょっと心が痛むのは何でだろう。
バッドエンドだからだな…。

設定が固まる前は、この兄弟、施設に拉致されたのではなく、本当に人造人間で、隙あらば殺し合おうとする危険な仲でした。
…公式のムービーがそう見えなくも無かったからね。
そんでもって、兄は嗜虐的かつ自虐的な性格で、弟は捻くれて荒んだ性格。それでいて、研究員には屈従どころか甘えるように絶対服従という、施設内でも異端児。でも研究員から見れば、こういう実験体の方が可愛いと思うかも知れませんね…。
しかも、他の地区の実験体(ギガや、アーミィ、グラビティとか)に、戦いを挑みに行くという血の気の多いバイオレンス兄弟。他の地区から見れば要注意的存在の実験体でした(自分の地区の実験体に怪我させられたり破壊されちゃあ、堪ったモンじゃないから)
・・・今の設定に落ち着いて良かったと思ってます。ええ、本当に…(笑)

何気に、身内に大好評な擬人化キャラでした。
「何で、あれ(公式絵)が、そうなるの!?」…とも言われましたね。メガロマニアなくらいのパラノイアフィルターの賜物だ(痛)
本当の事の始まりは、新たな萌を探す冒険という名の茨道。脱マンネリ化と嫉妬心からなのですけれど、これはナイショのお話。
妄想と想像に、僅かに嫉妬のスパイス入れた創造力って、強力ですよ。


ちなみに、今更過ぎる2人のプロフィール(笑) 話とは関係ない蛇足。
名前:プラズマ・S・サイズドテクノ
趣味:読書、旅行(弟と出かけるのが好きらしい)
好き:コーンスープ
嫌い:犬、寒い所、早起き
特徴:無愛想、一度覚えた事は絶対に忘れない

名前:シンセ・F・サイズドテクノ
趣味:運動、ボードゲーム(兄には勝てないらしい)
好き:グミキャンディ
嫌い:虫全般、ブラックコーヒー、高い所
特徴:愛嬌があり人懐っこい、人を視る目がある

…となっております。名前は、モロに曲名ジャンル名アーティスト名を使用(笑)


オイオイ待てよ、2人とも可哀想じゃねぇか!…なんて、お思いの方、どうしても、報われて欲しいな~、死ぬ結末なんて最低だ…なんて、考えている方へ。
即興で、暫定の続きを書いてあります。良心…とは言えませんけどね。
プラズマ兄さんは、意識が戻ったみたいですよ(笑)



エピローグ

「…っ」
 突然、私は、飛び起きた。
 無理に身体を捻った所為で、骨組みの翼が絡まったが、そんな事よりも…。
 ここは、何処だ。
 いつもとは違う、ベッドの上。見慣れない部屋。
 長い間、眠っていたのだろうか。目が霞む。それに加え、部屋の中は薄暗く、辺りが、良く見えなかった。
 隣に、もうひとつベッドがあって、その上に人陰が見える。
 良く目を凝らしてみれば、弟の姿だった。
「シンセ…」
 静かに目を閉じている、弟の顔。
 その頬に、そっと指先、触れてみた。
 温かい。
「生きてる…のか」
 どうなっているのか、状況が解らない。
 弟は…。
 …私が、殺めたのではなかっただろうか。
 何が起きた。
 それに…弟に触れて、温かいと感じた。
 おかしい。
 私の手は、実験の事故で消し飛んで、代わりに機械の手が付いていたはず。
 温度や感触が、解るはず無い。
 自分の手を見ると、鋼鉄の手ではなく、普通の、紛れも無く、人間の手だった。
「あー、悪魔君、目が覚めた~?」
 間の抜けたような、声。
 それと同時に、部屋に、蛍光灯の明かりが、広がった。
 眩しくて目を閉じたが、私は、薄目を開けて、声の主を確認する。
「ジェノサイド博士…」
 部屋の出入り口に、赤と灰色の服を着た男が、笑顔で立っていた。
 明るくなった部屋を見回すと、物々しい機械や計器が置かれている。
 円柱型のガラスケースが3つ。その中に、片脚づつと、片腕が、培養液の中に、浮いていた。
 どこかの実験室だろうか。
「あの…、私は…いや、それよりも、弟は…」
「あはは。んー、言うなら、『命は助かった』ってトコかなぁ~?」
 笑顔のままで、ジェノサイド博士は、私の前まで来た。
 弟が、命を繋ぎ込めたのだと、確信して、私は、大きく息を吐いた。
「あの後、大変だったんだよ~」
 あの後…。
 私が、麻酔で、眠らされた後の事だろうか。
「チームリーダーは、君の手で即死。12区警備兵の半数が重傷、残りの半分が軽傷。覚えて無いかもしれないけど、凄い修羅場だったね~。チームリーダーが死んだ所為で、12区のチーム内は荒れちゃってね。元々さ、両方のチームとも、ぎすぎすしてたチームだったんだよ。お蔭様で、今や第12地区は、研究の方向性を失っちゃったみたい。しばらくは、静かになるだろうね~」
 自分には関係の無い地区だからだろうか、ジェノサイド博士は、他人の笑い話のように、話した。
「私は…初めて、人を、殺しました」
 簡単な事だった。
 あんなにも…。
「愚かな人間が、悪魔を造って、その悪魔のお咎めを受けたって事だよ」
 私の思考を止めるかのように、ジェノサイド博士は、私の目を塞ぐように、手の平を翳した。
「悪魔が人を殺すなんて事、あっても可笑しく無いでしょ~」
「私は、悪魔では無いです」
「実験体の暴走なんて、日常茶飯事の事だしねー」
「いえ…。あの時、私は、正気に戻って…」
「ただの暴走だよ。薬による、暴走…。人間に戻ったら、忘れなきゃ…」
 ジェノサイド博士の、その言葉は、私に宛てられたものなのだろうが、どこか、自分自身に言っているようにも聞こえた。
 そして、私の目から手を離すと、ジェノサイド博士は、口元に笑みを浮かべた。
「そうそう、君の事だけどね。研究員を殺した実験体は、危険だから、処分される所だったんだけど、僕が君の事をこっそり仮死状態にして、死体処分という名目で、引き取ったから。弟君も、死んだ事になってる」
「…そう、だったんですか。ありが…」
「はい、ストップ!」
 礼を言おうとした私に、ジェノサイド博士が、制止を入れた。
「お礼を言うのは、気が早いよ。君、自分がどういう立場か分かって無いでしょ~?」
「……」
「君も弟君も、この施設で死んだ事になってるんだよ~? どういう事か解る? 実験体でも研究員でもない存在は、ここでは『物』としか扱われないんだよー」
「物…ですか…」
「そうだよ~。今の所、僕の所有物として登録されてるから、ヨロシクね~。あ、ちなみに登録内容では、悪魔君がコウモリの置き物で、戦士君が鷹の剥製になってるから」
 からかうように、私の鼻先をつついて、ジェノサイド博士は、けらけらと笑った。
「それとね、弟君の事だけど~」
 ジェノサイド博士が、弟の方を見る。
 私も弟の方を向いた。
 さっきは、暗がりで良く見えなかったが、弟は計器や機械に、コードやらケーブルが、繋がっているようだった。
「んー。正直、ちょっとキビシイ状態なんだよね~」
 ジェノサイド博士が、弟の前に移動して、腕組をする。
「左腕、両脚、内蔵の一部…。無くなってたからね~」
 そうだ。私が、弟をこんな目に…。
「はい、落ち込まないの!」
 感情を読まれたのだろうか。ジェノサイド博士は、私の思考を、断ち切るように、声を上げた。
 私は、突然に思考を止められた所為で、身体が固まる。
「過ぎた事を悔やむより、弟君を治す事を考えた方が、有意義だと思うよ~?」
 そう言って、ジェノサイド博士は、部屋の隅に立っている、3つのガラスケースを指差した。
「あれ、弟君の手足だから。足りなかった所は、君の細胞を借りたよ。君の再生速度は、すごいね~。僕、びっくりしちゃったよ~。君みたいに早い再生能力を持ってる実験体なんて、この施設じゃあ、管理者君だけだよ」
 くすっと笑い、ジェノサイド博士は、私に顔を近付けた。
「君は、物なんだから、僕の役に立って欲しいな~?  その為に君の不器用そうな鉄の手じゃあ、不便そうだったから、先に治しておいたからね~。なぁんて言っても、鉄の手を切り離して、ちょっと手を加えたら、あっというまに再生しちゃったんだけどね~」
 軽く肩を竦めて、ジェノサイド博士が言う。
「ジェノサイド博士…。どうして、ここまで私たちに…」
「この施設から、出ようって、約束したじゃない。お礼が言いたかったら、施設を出てからにしてね! それまでは、お互い協力する仲なんだから」
 私の問いに、優しい笑顔で、ジェノサイド博士が答えた。
「悪魔君、もう少し寝ていた方がいいよー。君に使われた薬は、身体にも精神にも負担の大きいものだから。僕も今から調べものがあるしねー」
 そう言いながら、机の書類を集めて、ジェノサイド博士は、部屋の出入り口へ向かった。
「あ、そうそう、あとね…。君の手を最初に治した理由だけど…」
 部屋を出る寸前で、私に振り返り、弟の方を指差す。
「所有者である僕から、コウモリの置き物へ命令ー! 弟君が目が覚めて元気になったら、弟君の手術、手伝ってね~!」
 一瞬、何を言われたのか解らず、私は、目を見開いたが、その後、すぐに理解し、深く頭を下げた。
「ええ、喜んで、お受けします」





- 終 -

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