序:迷いの路地裏
「…え? え!? な、何…?」
思考が追いつかず、身体が固まる。
薄暗い路地裏、分厚い防護服にガスマスクを着けた人だかりに囲まれている。明らかに異様な光景だった。
これは夢だろうか。それにしては随分と物々しい雰囲気がする。
数秒程してガスマスクの人だかりが割れ、その間から顎先に髭を生やした男が前へ出てきた。
深く被った草色のニット帽から覗く目はとても眼光が鋭く、体格の良い身体の腰には大きな刀を下げている。どの角度からどう見ても堅気の人ではない。
「あんた、いつからそこに居た」
穏やかな低い声。けれど、凄みを含んだ声色に恐怖を感じた。
「……」
完全に思考停止になって言葉を失っていると、髭の男はふぅと溜め息をして紺青色のダウンジャケットから通信端末機らしいものを出した。
「ボス、不審な人物を捕獲しました。…どうします?」
誰かとの連絡。ボスと呼ぶ人がいるのだから、やっぱりそっち系の職業の人に間違いなさそうだった。
「…えぇ、現場にいたんで。…分かりました」
話を終えると、髭の男は横目でこちらを見た後、ゆっくりと顔を向けた。
「悪いが、一緒に来てもらおうか」
「え…」
夢乙女は目を大きくする。何が何だか分からないけれど、この状況が大変危険なのは疑いようが無い。間違いなく人攫いだ。
数歩後退ると、背中に何かが当たった。振り返れば目の前に分厚い防護服のガスマスクの人たち。
思わず間抜けな叫び声を上げると、髭の男は少し目を細めた。
「本当にただの素人…か」
静かに呟く。怖い目付きが少し和らいで、空気が重たくなるような威圧感も薄らいだ気がした。
「どちらにしろ、ここに置いてくわけにはいかないんで、一緒に来てもらいます」
そう言うと、髭の男の後ろにいたガスマスクのひとりが手に縄を持って前へ出てきたが、髭の男が軽く腕を上げて制する。
「必要ない。下がれ」
すぐにこちらへ視線を戻して、ゆっくりと髭の男が近づいて来た。
「大人しく来てくれますよね?」
穏やかではあるが、言葉の裏には“拒否は許さない”と含ませる口調。
断るなんて、できるような状況ではなかった。
1章:怖いような3人組
大きくて全貌が見えなかった乗り物に乗せられ、暫く移動した後に着いたのは、建物の中だった。
何の飾り気も無い灰色の壁の廊下。夢乙女は髭の男の斜め後ろを少しだけ距離を置いて歩く。
なんだか不思議な気分だった。人攫いって、もっとこう…強引に捕まえて否応無しに連れ去るものだと思っていた。それとも、この人のやり方が風変わりなんだろうか。しかし、どうあっても、この状況が怖い事に変わりはない。
不意に、髭の男が歩きながら振り向いた。
「うちのボスは基本的には大人しいです。でも気難しいんで、波風立てないほうが身の為ですよ。気に入らない相手には容赦無いですから。…気に入った相手でも、虫の居所が悪いと血を見ますけどね」
「は、はぁ…」
言われるまま、夢乙女はこくりと頷いた。数秒後、言われた内容をやっと理解した。この髭の男ですら怖いのに、これからもっと怖い人に会いに行くという事に。
無意識に足取りが重くなって、歩く速度が落ちる。それに気が付いた髭の男は、歩幅を縮めて速度を合わせた。
「…お名前、まだ伺っていませんでしたね」
優しい声で、髭の男が言った。こちらの心情を察してくれたのだと、すぐに分かった。この人、見た目は怖いけど、本当は優しい人なのかもしれない。
「俺は刺斬と申します。あなたは?」
「夢乙女…です」
「何故、あの場所に?」
「あの…それが、分からなくて…。気が付いたら、あそこに居て…」
しどろもどろに答える。我ながら余計に疑われるような答えをしてしまったと思う。でも、何も間違ってないし、嘘でもない。
「そうですか。災難でしたね」
刺斬と名乗った男は、珍妙な答えでも納得してくれた。疑われると覚悟していたのに。
「あの場所が何でもなければ、あなたを見逃してましたが…。これも何かの縁でしょう」
静かに流れる水のような、そんな印象を受ける物腰の柔らかさ。最初に会った時とのあまりの違いに戸惑っていると、刺斬が足を止めた。廊下の突き当たりにあるドアをノックすると、奥から「入れ」と声がした。
部屋の中はリビングルームのようで、部屋の真ん中にテーブルとそれを挟むようにロングソファーが置いてあった。
ソファーに腕組をして座っている、燃えるような赤い髪を逆立てた男。その向かい側のソファーには、白銀色の髪の少年がテーブルに頬杖を付いて座っていた。
怖い人たちがいっぱいいる部屋かと思いきや、生活感溢れる空間に子供もいてくれたお陰で、少しだけほっとした。
「おう、刺斬。戻ったか」
赤い髪の男が張りのある声で言った。いかにも堂々とした態度で、にぃと笑う。
「…遅い…」
白銀色の髪の少年が、やや機嫌が悪そうに呟きながら刺斬を見上げる。
「すんません、遅くなりました」
刺斬は軽く頭を下げて、夢乙女を前へ立たせた。すると、赤い髪の男は身を乗り出すように凝視し、白銀色の髪の少年は目をぱちぱちと瞬いた。
「…思ってたのと違う、な」
赤い髪の男が、小声で白銀髪の少年に声をかける。
「おい、不審人物って言うから、もっと怪しいヤツだと思ったじゃねぇか」
「見た所、武器も隠し持ってなさそうだし、身体も軟弱だな。…どう見ても一般人」
「…そうっスよね。ははは」
2人の指摘に、笑って誤魔化す刺斬。その様子に、白銀色の髪の少年は顔をしかめた。
「しょうがないな…」
白銀髪の少年が膝の上に乗せていた黒いヘルメットを被ると、ソファーから立ち上がる。背もたれに置いてあった黒い布を手に取り、それを灰色のタンクトップの上に纏った。
「お前、ここに座れ」
少年は、自分が座っていた所を指差した。少し低い背の高さから輝くような金色の目で見上げてくる。まだ幼さの残る顔立ちなのに、その目は刺斬よりも鋭いものを感じさせた。
緊張して強張る身体を何とか動かして、夢乙女は促されるままソファーへ腰掛けた。両膝に手を置くと、自分の足が少し震えているのが分かった。早くここから帰りたいという気持ちがふつふつと沸いてくる。
「で? 首尾は?」
刺斬の方を向いて、少年が短く言い放った。
「要人は虫の息でしたんで、仕留めるのは楽でした。残りも片付けた所で・・・」
少年と刺斬が立ち話をしているのを横目で見ていると、唐突に声をかけられた。
「譲ちゃん」
「はっ」
反射的に息を飲んで、赤い髪の男の方へ顔を向ける。闇夜に浮かぶような、月色の瞳と目が合う。赤い髪の男は、白目の部分が黒色という異様な目をしていた。
「どう見ても、あんな所に似つかわしくねぇ。何であそこに居た?」
「あそこって…?」
「堕落したヤツらの吹き溜まりの街だ。譲ちゃんみたいなのが1分とマトモにいられるような所じゃあねぇんだよ」
「どうしてあそこに居たのか、分からなくて。私、家に帰る途中だったのに…」
「…ふん」
赤い髪の男は、大きく息を吐いた。刺斬と違って、疑っているようだった。
「それが本当なら、刺斬に感謝するんだな。今頃、飢えた男どもに食わ…」
「鎖さん、そういう物言いはやめてください」
話の途中で、刺斬がぴしゃりと言葉を挟む。
「はいはい、分かったっての」
鎖と呼ばれた赤い髪の男は、ぷらぷらと片手を振った。
「ま、なんつーか、色々と身の危険が起きる所だ。あの街から出られて、よかったな」
赤い髪の男が快活な笑顔を浮かべる。荒々しい雰囲気ながらも豪快さのある風格に、こういう人がボスになるんだなぁと夢乙女はひとり納得した。
「どうするよ?」
赤い髪の男が、少年の方へ振り向く。
少年は、ふいと刺斬を見上げた。
「大方、あの街の誰かに拉致されたんでしょう」
少年の意図を察して刺斬が答えると、少年はこちらへ身体を向けた。
「お前、あの街でこいつが何をしていたのか、見たのか? 正直に言え」
「さ、刺斬さんが何してたかなんて分からない。ガスマスクの人たちがいっぱいいただけで」
「そうか。じゃあ、オレたちのことは忘れろ。それが約束できるなら、帰してやる。ただし…」
少年が目を細める。金色の目に見据えられると、身体が凍るような悪寒がして息が止まった。
「もし、誰かに言ったら、命は無いからな…」
「っ…」
あまりの迫力に、夢乙女は身体を縮こませた。少年の見た目からは想像も付かないほどの、底知れぬ威圧感。深い暗闇を感じさせたのは、黒を身に纏っているからではない、もっと奥からのものだと本能が告げる。
「怖がらせないでください。俺が責任持ちますんで」
刺斬が少年に顔を寄せて、諌めるように静かに言った。
「…約束、できるか?」
声を和らげて、少年が言う。
夢乙女は、こくこくと頷いた。それが今できる精一杯の返事だった。
少年は満足したようで、薄く笑う。
「帰らせてやる。送ってやるから場所を教えろ」
夢乙女が自分の住む街の名前を伝えると、3人は疑問符を浮かべた。
「…聞いたこと無いな」
「そんな地名あるんですか」
「本当にンな所あんのか?」
三者三様に言葉を口にする。その後、3人は顔を合わせて、夢乙女が聞いた事もない地名をお互いに言い合っていた。
「そんな名前の街は知らない。その場所を探させるから、少し待っていろ」
少年がこちらへ向いて言う。
「お願いします…」
夢乙女は肩を落とした。やっと帰れるかと思ったのに、地名を知られていないほど、ここはとんでもなく遠い所らしい。
「エグゼに連絡を取れ。管理者のデータから場所を特定させろ」
「はい」
少年が刺斬に声をかけると、刺斬は部屋の奥へと向かった。
「ここからとても遠い場所なのか? それとも文明遅れの未開拓の地か?」
「未開拓じゃないです、都会です!」
少年の言い方にむっとして少し声を大きくすると、少年はくすっと笑った。
「…へぇ。じゃあ、有名な場所なんだろうな? お前の軟弱な身体からして、治安のいい街なんだろう?」
「有名だし、治安もいいです。それに、私はそんなに言われるほど軟弱じゃないです!」
少年の言葉に何か引っかかりを感じながらも、夢乙女は言い返した。何が面白いのか、少年はくくくと肩を震わせて笑った。
「そうか。…じゃあ、早く帰らせないとな…」
と、目を伏せながらが思いつめるように言う。
そこへ刺斬が戻ってきて、少年の前で身を屈めた。
「困った事になりました」
「どうした?」
「それが…。管理者のセキュリティが強いようで、アクセスが難しいそうです」
「エグゼが手こずるなら、よほどだな。どれくらいかかりそうだ?」
「皆目見当付かないそうです」
「らしくないな。もしかしたら、管理者の方に何かあったのかも」
少年はう~んと唸ってから、こちらを見た。
「お前、すぐには帰せそうにない。場所が分かるまで、しばらくここに居ろ」
「何ならずっといてもいいぜ?」
赤い髪の男が、にやりと笑って手を振る。
「勝手なこと言うな」
少年は赤い髪の男に早口で言い放った。
「それと…部屋の外に出るとき時は、必ずオレたちの誰かと同行しろ。お前を監視するわけじゃない。ひとりで出歩いて身の安全は保障できないからだ」
「ここも安全とは言い難い場所なんで。申し訳ないスけど、我慢してください」
少年と刺斬が、真剣な表情で言った。
「それじゃあ、名前くらいは教えておかねぇとな」
赤い髪の男が、こちらを伺うように見つめる。
「俺は鎖だ。少しの間よろしくな、譲ちゃん。堅苦しい挨拶も敬語もいらねぇぞ。刺斬だけで腹いっぱいだ」
「ははは。…酷い…」
明るく朗らかに言う鎖と、乾いた笑いを浮かべる刺斬。
「オレはⅨ籠って呼ばれてる。クロウでいいぞ」
白銀色の髪の少年は薄い笑顔で言った。
「私の名前は夢乙女だよ。刺斬さん、鎖さん、クロウくん、よろしくね」
「…くん…? そんな呼び方、初めてされた…」
Ⅸ籠はきょとんとして目を丸くする。
「…何か、変な感じ…。呼び捨てでいい…よ…」
居心地悪そうに肩をすくめて、顔を伏せる。
その様子を見て、唇を噛みしめて笑いを堪えている刺斬と鎖。それに気付いたⅨ籠が2人に向かって睨むと、2人はすぐに真顔になって視線を泳がせた。
刺斬が気を取り直すように、深呼吸をひとつする。
「…では、夢乙女さんの部屋を用意します。向かい側の部屋、片付けていいですよね、ボス」
Ⅸ籠に向かって声をかける刺斬を見て、夢乙女は唖然とした。
「ボスって、その子だったの!?」
思わず出た大声。てっきり鎖がボスだと思い込んでいた。今更ながら、話の決定を全てⅨ籠がしていた事に気が付く。
「べ、別にいいだろ…。オレ、これでも長く生きてるんだからな!」
「うそ…でしょ…」
「嘘じゃない。お前たちからも言ってやれ」
Ⅸ籠が鎖と刺斬を見遣る。
「はいはい、クロウは長生きですよねー」
「人は見かけによらない典型です。歳ばかり重ねても大人になれないという、いい見本っスね」
「お前たち…覚えてろ…」
2人の返答に、震える声でⅨ籠が呟いた。
「クロウくんって…大人なの?」
まさかとは思うけれど、念のために確認してみる。万が一にでも成人してるのであれば、失礼な事を言ってしまった。
「…いや、そうじゃない…違う、けど…」
たどたどしく言葉を出すⅨ籠。
男の子は背伸びしたがると聞いた事があるけれど、本当なんだと夢乙女は思った。
張り詰めたように感じていた空気はすっかり緩んでいて、いつの間にか膝の震えは止まっていた。
2章:毒の空
「夢乙女…」
声。誰かの声がする。
懐かしいような、その呼び声。
この声の主を知っている。
その名前を呼ぼうとした瞬間、沈み切っていた身体が急激に浮上した。
「!」
びくりと身体が動いて、夢乙女は目を見開いた。どきどきと心臓の鼓動が早い。
なんだ夢かと思った所で、夢の中の人物は誰だったのか忘れてしまった。懐かしいという感覚しか残っていない。
「んー…」
夢乙女は布団の中で伸びをする。ゆっくりと身体を起こして目に入ったのは、見慣れない部屋。
そうだった。訳が分からないまま、連れ去られてしまったんだった。
これから、どうすればいいんだろう。不安な気持ちが蘇ってきた。
ベッドから降りて、部屋の中を見渡す。急ごしらえとはいえ、元々は物置に使っていたと思われる色味の少ない部屋は整然と片付けられて、少し物寂しいものがある。
廊下へと繋がるドアのノブに手を触れた所で、夢乙女は手を止めた。
あの3人の誰かと一緒でないと、外へ出てはいけないと言われたのを思い出す。よくよく考えてみれば、軟禁状態のようなものだ。
部屋の外に出ないならいいよね…と、自分に言い聞かせて、そっとドアを開ける。隙間から廊下を見ると、防護服を着た人たちが何人か通り過ぎて行った。
重たそうなガスボンベを背負う後ろ姿が小さくなっていくのを眺めていると、防護服の人たちが足を止めて軽く会釈をする。その先から刺斬が歩いて来るのが見えた。
「刺斬さん」
廊下へ出て声をかけると、刺斬は目を細めて微笑んだ。
「おはようございます。早起きですね。それとも、寝付けませんでした?」
「お…おはようございます。夢見るほど寝てました」
「それなら、よかったです。朝飯もうすぐなんで、こちらで待っててください」
刺斬は安心したように言って、斜め向かい側のドアを開けた。
昨日のリビングルームに入ると、中には誰も居なかった。代わりに、ほんのり甘みのある香ばしい匂いが広がっている。
「もしや、部屋から出ないで待ってたんですか?」
刺斬が気が付いたように言う。
「ひとりで部屋を出ちゃダメって、言われたから…。でも、起きて、ちょうど刺斬さんが戻ってきました」
「昨日の言い方では分かりづらかったですね。ここの廊下周辺は大丈夫ですよ。この区画はクロウさんが仕切っていますし、この部屋の近くで騒動を起こすような隊員はいませんから。この部屋との行き来も遠慮なくどうぞ」
そう言いながら、刺斬は部屋の奥へ進んだ。
隊員と聞いて、それがあの分厚い防護服に身を包んでガスマスクとゴーグルを着けた人たちであることは、容易に予測ができた。具体的に何をしているのかは分からないけれど、映画なんかで時々見るような特殊部隊を頭に浮かべる。
奥にある食卓の席に案内され、促されるまま席へ座ろうとしたが、夢乙女は思い直して刺斬を見上げた。
「あ、あの…。ありがとうございます。私が迷い込んでいた街は、危ない場所だったんでしょう?」
「礼には及びません。俺はボスの指示に従っただけなんで」
「でも、あの時、刺斬さんに会えなかったら…。だから、本当にありがとうございます!」
夢乙女は万遍の笑顔で、深く頭を下げた。
刺斬は少し驚いて目を大きくする。
「…どーいたしまして」
照れ隠しなのか、刺斬はニット帽の端を少し下げて目を隠した。
「もうすぐパン焼けるんで、用意しますね」
そそくさと、奥にある…多分キッチンであろう部屋へ歩いて行った。
夢乙女は席に着いてひと息つく。
パンと聞いて、急にお腹が空いてきた。部屋に漂うちょっと幸せな気持ちにさせてくれるこの匂いの正体がパンだと分かって、夢乙女は大きく息を吸った。
刺斬さん、パン焼くんだ…あの顔で。強面なのに、ふかふかのパンを作っているのを想像したら、何だかおかしくてふふっと笑ってしまった。
程なくして、刺斬が戻ってきた。4人分の四隅の丸いランチョンマットを敷き、その両端にナイフとフォークを置く。まるでレストランのようだった。
「いつも、こうなんですか?」
「緊急で出ることがなければ」
「はぁ…」
夢乙女は感嘆した。よほど料理好きなのか、こういう仕事をしていたのか。
「まだ、あなたの街は分からないそうです。迷惑かけます」
「いえ、私のほうそこ、お世話になっちゃって」
「お気になさらず」
申し訳なさそうな笑顔を向けると、刺斬は優しく笑ってくれた。
ごんごんと、やや乱暴な音が響いて、夢乙女と刺斬は音のしたドアの方へ顔を向けた。
「クロウ連れてきたぜ」
ドアを開けて鎖が顔を出す。Ⅸ籠の手を引いて、ゆっくりと部屋へ入ってきた。
「無理に起こさなくても…」
刺斬が足取りの重いⅨ籠を見ながら言った。
「ふらふら歩いてたんだよ」
「あぁ…」
小声で口早に言う鎖に刺斬はよそよそしく返事をして、再びキッチンへ向かった。
「おはよ!」
鎖は荒っぽい見た目に似合わない、子供っぽさすら感じる笑顔で夢乙女に挨拶する。月のような瞳とは裏腹に、太陽みたいな人だなと夢乙女は思った。
「おはようございます!」
負けじと笑顔を向けると、鎖は「おうおう、元気が一番」と呟いて、夢乙女の隣の席にⅨ籠を座らせた後、自分はその向かい側の席に座った。
夢乙女は隣の席に座ったⅨ籠に目を向けた。昨日の凛とした態度とは打って変わって、どこを見ているわけでもなく、気が抜けたようにぼんやりとしている。
「クロウくん、おはよう」
声をかけて顔を覗き込むと、Ⅸ籠はこちらへ顔を向けたが、鈍い動作でまた何も無い空間を眺め始めた。
「あー、寝起きで反応悪ぃだけだ、気にすんな」
鎖が苦笑いを浮かべる。
それから、夢乙女は鎖といくつかの話をした。その殆どがよくある他愛も無い世間話。鎖たちが何をしているのか気になっていたが、それはきっと触れてはいけない話題なんだろうと感じていた。何より、ここでの事は全て忘れることを約束している。深い詮索はしないほうがいい気がした。
「譲ちゃん、お前はいい女になる」
それを知ってか知らずか、鎖は会話の最後に、にっと笑ってそう言った。
鎖は話をしながらも、時折思い出したようにⅨ籠の目の前で手を振って様子を伺っていた。それの6回目になって、Ⅸ籠の意識は覚めたようだった。
「よ、寝ぼすけ大将」
鎖がいの一番にからかう言葉を投げると、Ⅸ籠は半目で鎖を睨んだ。
「寝てたわけじゃ…」
「刺斬、飯早くー! 大将がお目覚めだぞー!」
Ⅸ籠の言葉を遮るように、鎖が大げさな声を上げる。その意図に気付いたらしいⅨ籠は、口を閉ざした。
奇妙な雰囲気を感じながらも、夢乙女はⅨ籠の顔を覗き込んだ。
「起きた? おはよう」
「おは…よ…」
Ⅸ籠は、こちらをちらりと見た後、首を縮めて顔を伏せた。
「お待たせです」
刺斬が料理を運んできた。
焼きたてのテーブルロール、ベーコンエッグ、鮮やかなサラダに具沢山のクリームスープ。彩りも盛り付けも、やはりレストランの朝食のようだった。
Ⅸ籠がクリームスープを細目で見つめた後、刺斬を見上げる。
「刺斬、キノコ入れたな?」
「さすがボス、見事な直感です。でもダメです。食べてください」
「オレは視認できる大きさのカビを食べ物とは認めてない」
「屁理屈言わないで食べてください」
「鎖、お前が食べろ」
「やなこった」
鎖はⅨ籠が押し付けたスープを、そのままⅨ籠の方へ戻す。
夢乙女は3人のやり取りに口を挟んでいいものか迷っていたが、我慢できずにⅨ籠に訊いてみる事にした。
「…キノコ、嫌いなの?」
ぴくりとして、Ⅸ籠の動きが止まった。否定しない肯定。疑問は確信に変わる。
「せっかく刺斬さんが作ってくれたんだし、好き嫌いしないで食べようよ。ね?」
「……」
言い聞かせるように言うと、Ⅸ籠は黙ってスープを食べ始めた。あまり噛まずに飲み込んでいるようだったが、食べないよりはいいと思った。
ふと、刺斬をみると、両手の平を合わせて拝むように天を仰いでいた。一方、鎖はガッツポーズを決めている。
2人の突然の行動に状況が飲み込めず、夢乙女は目をぱちぱちと瞬いた。
「譲ちゃん、よくやった…!」
感じ入ったように、鎖が力を込めて言った。その横で刺斬はうんうんと大きく頷いている。
Ⅸ籠はその後、何か話を持ち掛けられれば答えるくらいで、静かに食事をしていた。
刺斬の料理は、驚くほど美味しかった。
ほかほかのパンは中はもちっとして外はカリカリ。ベーコンエッグのベーコンは厚切りなのにやわらかく、クリームスープは濃厚で味わい深い。サラダのドレッシングは今まで食べたことのない味だから、きっと手作りかもしれない。
こんな美味しい物を毎日食べられるⅨ籠と鎖が、何だか羨ましく思えてしまった。
食事をしながら、少しだけ、ここの事を教えてもらった。ここは大きな国の中にある特別な組織で、国からの信頼も厚いそうだ。この建物はいくつかの区画で構成され、各区画にはそれぞれボスの存在がある事。そのために、区画間で抗争が起きてしまう問題もあるらしい。そして、組織の上層部の命令で活動している事。何を目的とした組織なのかは教えてもらえなかったが、緊急で出てしまう事があるからその時にはひとりにさせてしまうかもしれない事を、申し訳無さそうに話していた。
食事が終わると、鎖は用事があるからと早々に部屋を出て行った。
Ⅸ籠はソファーに座ると、刺斬から書類を受け取って目を通し始め、何枚か見終わると刺斬に返した。刺斬は書類を受け取って奥の部屋に行った。
夢乙女は用事が終わったのを見計らって、Ⅸ籠の隣に座った。
「飴食べる?」
夢乙女はポケットから大粒の飴玉を出した。食事中に上着のポケットに飴がいくつか入っていたのを思い出して、それをⅨ籠にあげようと思っていた。
「それ、何の弾丸だ?」
Ⅸ籠は不思議そうに飴玉とこちらの顔を交互に見た。
「だんがん? 大きめだけど、飴だよ。飴嫌い?」
「あめ…」
と、確認するように言いながら、Ⅸ籠が夢乙女の手から飴を取った。個包装から出すと、飴玉を注意深く観察する。
「火薬が入ってない…。毒性物質もないし魔力も感じない。これじゃ、殺傷力は低いな。投げれば頭を撃ち抜くくらいはできるか…」
まじまじと飴玉を見ながら、よくわからない事を小声で呟くⅨ籠を見て、夢乙女は首を傾げた。
「もしかして、飴知らない?」
声をかけると、Ⅸ籠は自分が考えが間違っているのを理解したようで、顔を上げてじっと見つめてきた。
「飴だよ、飴。食べられるんだよ」
夢乙女はポケットからもうひとつ飴を出して袋を開けると、自分の口に飴を入れた。
それを見て、Ⅸ籠は真似するように飴を口に入れた。分かってもらえてよかったと思った次の瞬間。
がり。
はっきりと聞こえる、砕けた音。その後もぼりぼりと硬質な音が続く。
まさか硬い飴を噛み砕くとは思ってなくて、夢乙女は口を半開きにしてⅨ籠を見ていた。
「これ、美味しいな…」
ぱっと表情を明るくして、Ⅸ籠が言った。
「よかった。もっとあげる。これしかないけど…」
残りの飴を全てⅨ籠に渡す。イチゴ、マスカット、レモン、オレンジ、ミルク味の飴がひとつずつしか残っていなかった。
「…ありがと…」
Ⅸ籠は、はにかんだ笑顔で言うと、飴を両手で握り締めて立ち上がる。
「解析班に渡してくる。量産できるかも」
そう言い残し、嬉々とした様子で部屋を出て行った。
夢乙女はⅨ籠を見送った後、飴工場でも作る気なのかなあと、そんな事をぼんやり考えた。飴は噛み砕くものではない事を教えるのを忘れてしまったから、後で教えてあげなければ。それにしても飴を知らないなんて珍しい。この地域は飴が一般的ではないのかもしれない。
刺斬が言った通り、Ⅸ籠は大人しい子だなと思った。ボスというから、わがままで威張り散らすような子だと思い込んでいたが、その考えを改める事にした。もしかしたら、元々は父親がボスでⅨ籠は二代目なのではないかと、そんな想像もした。だから先代にお世話になったであろう刺斬と鎖がⅨ籠を可愛がっているのではないだろうか。
夢乙女は朝食の後片付けをしている刺斬を手伝った後、部屋に戻る事にした。
廊下に出ると、少しだけ冷えた空気と静けさが広がっている。青白い蛍光灯の光が少し頼りなく見えた。
自分に宛てがわれた部屋のドアへ手を伸ばして、思いとどまる。ここの廊下近くは安全だと聞いたのだから、少し見て周ろうと思い立った。廊下は長く遠くまで続いている。反対側の先には非常口らしいドアが見えた。
そういえば、この廊下には窓がひとつも無い。廊下だけではなく、リビングルームも、借りている部屋にも窓が無かったことに気付く。
「外…」
ぽつりと夢乙女は呟いた。外に出れば、もしかしたら見覚えのある風景が見えるかもしれない。自分が住んでいる国ではないのは確かにしても、ニュースや本で見た事がある物があれば、おおよその場所の特定はできるのではないだろうか。あの3人の話から推測すると、この国はとても大きいらしいから、きっとどこかで見たような建造物がある気がする。
夢乙女は吸い寄せられるように、非常口へと近づいた。重たそうな鉄製のドアには、何か張り紙でもしてあったのか、古びて黄色くなったセロハンテープの跡と、誰がやったのか「開けたら必ず閉めてね☆」と細い文字で彫られていた。
見た目よりも重いドアを力を入れて押す。ギギギと軋みながら開いたドアの先は、2メートルほどしかない薄暗い通路。その先にまた同じようなドアがあったが、2つ目のドアにも鍵は掛かっていなかった。
外の風景は…。
「……」
眼前に広がっていた世界に、夢乙女は言葉を失った。
薄暗い世界。まだ日が暮れる時間ではないのに、空は夕焼けを濁したような薄汚い赤い色だった。どの方向を見ても砂埃でノイズが掛かったような掠れた景色。空に浮かぶ雲らしいものも、淀んだ黒色をしている。ひゅうひゅうと騒がしく吹く風は、時折、猛威を振るって暴風へと変わる。苦味を感じる風だった。
夢乙女は、螺旋型の非常階段があるバルコニーへ足を踏み出す。ざり、と、砂粒を踏んだ音がした。風に髪を乱されながら、フェンスへ歩み寄り、地上を見下ろす。
砂埃のせいで視界が悪く、地上の様子を見ることは出来なかったが、この階は高層ビルの最上階に近い場所であるのが分かった。
突然、フェンスの格子を掴んでいた手から力が抜け、滑り落ちるようにその場に座り込んでしまった。
「あれ…」
痺れて震える手。全身から力が抜ける感覚と同時に、寒気に襲われて鳥肌が立つ。
身の危険を感じた時には既に遅く、身体がゆっくりと倒れて、意識が遠のいた。
「夢乙女」
呼ぶ声がする。
「聞こえるか?」
夢で聞いた声。
「その組織は危ない。早く…」
この声。そうだ、ずっと前によく聞いていた声に似ている。
幼馴染で、隣に住んでいた・・・。
「!」
がばっと飛び起きた。視界に入ったのがあの赤い空ではなくて、借り部屋の風景に少しだけ安心する。
「はぁ…」
大きく息を吐く。赤い空は夢か、と、そう思ったところで、視界の端にいるⅨ籠に気づいた。ベッドの傍の椅子に座って、やや驚いた顔をしている。
Ⅸ籠は目が合うと、安堵したらしく肩を下げた。そしてすぐに表情を固くして、こちらに身を乗り出した。
「どういうつもりだ? どうしてこんな日にそのまま外に出た? 対毒性がある身体じゃないだろう? まさか死にたかったのか?」
「え…え?」
Ⅸ籠の質問攻めに思考が追いつかず、どう返答すればいいのか考えていると、Ⅸ籠は、はっと何かに気付いたように目を大きくした。
「お前の住んでいる所は、地下都市か海底都市なのか? もしかして宇宙都市…? それとも、街全体を覆うような大規模な防砂設備があるのか? それならある程度は街を特定できるかも…」
「ま、待って待って。ごめん、話がよく分からないんだけど…」
夢乙女は、首をかしげながらあれこれと思案するⅨ籠に制止をかけた。物静かな子だと思いきや、口早に色々と言うものだから面食らってしまった。
Ⅸ籠の様子から、良からぬ事態だった事は容易に推測できた。つまり、あの赤い空は夢じゃなくて、自分は外へ出て気を失ってしまったのだと。
話を止められたⅨ籠は、夢乙女をじっと見つめて次の言葉を待っていた。
「訊いてもいい?」
「いいぞ」
「今日って、何かあるの? 外、凄いことになってたんだけど…」
「今日は濃毒砂の日だ。ここは、他の地域に比べて毒砂が濃いから、驚くだろうな」
「…毒砂って、何…?」
「え?」
Ⅸ籠が怪訝な顔をする。
「お前、まさか記憶喪失…?」
「えっ? 何でそうなっちゃうの? 私、自分のことも、昔のことも覚えてるよ?」
「毒砂を知らないなんて…。お前、どこから来たんだ…」
心底驚いたように、Ⅸ籠は背筋を伸ばした。
それからⅨ籠は、毒砂について説明してくれた。砂埃に混じった有害な毒が、風と一緒に吹き荒れているという事を。毒砂の少ない日であれば、1日外へ出ても問題は無いらしいが、濃い日は十数分で命を落としてしまうらしい。
月の周期の影響を受けて特に酷い日が3日ほど続く事、そして今日がその日であった事。毒砂は決して珍しいものではなく、濃度の差はあるものの、世界中で当たり前にあるという事を教えてもらった。
でも、夢乙女は今までで毒砂なんて聞いた事がなかった。命に関わるほど危険な毒であるのなら、報道されないはずが無い。
心の底で萎みかけていた不安は、急に膨れ上がった。
夢乙女はぎゅっと目を閉じ、両手で顔を覆った。ここはどこなのか。見たことが無い空。自分の知らない事が当たり前の世界。頭の中で考えが纏まらない。纏まるはずがない、未知の領域に踏み込んでいるのだから。理解できるわけが無い。
うな垂れる夢乙女の様子を、Ⅸ籠は静かに眺めていた。どう声をかけていいものか、分からないようだった。
「…ごめんね、心配かけて。助けてくれて、ありがとう」
気が落ち着いてきた頃、夢乙女はⅨ籠に謝った。
「気にするな。ここが、お前に合わない環境なだけだ。必ず帰してやるから、お前は何も心配しなくていい」
Ⅸ籠は大きく深呼吸して、立ち上がった。足音も無く部屋の出入り口へと進み、そこで振り返る。
「お前が住んでいる場所は、毒砂が無いんだな。オレ…、そんな世界があるなんて、知らなかった…」
Ⅸ籠が目を細めて、ゆっくりと言った。それは無知な自分を蔑んでいるようであり、夢乙女が遠い存在である事を憂いているようでもあった。
3章:灰色の町
夢乙女が元気が無いと、話を聞きつけたらしい鎖は、毒砂の少ない日に夢乙女を外へ連れ出した。
黒いサングラスをかけた鎖は燃えるような赤い髪を風に靡かせながら、落ち着いたモスグリーン色の大型二輪バイクを操る。
夢乙女は、そんな気遣いが、嬉しくもあり、また申し訳なくも感じながら、後ろから鎖の腰に両腕を回してしがみ付いていた。腹に響く低いエンジン音と、風を切る音。ロングコート越しからでも分かる、温かい体温とがっしりとした筋肉質の身体は、思っていたよりも細身である事に驚いた。
景色は見渡す限りの広い荒野。所々に崩れたビルの鉄骨やコンクリートの残骸が見える。ここは昔は町だったのだろうか。どこかに見たことのあるものがあれば…と、微かな思いで目を凝らしてみる。毒砂で掠れた景色は、遠くにビル群らしきものが見えるのと、何か巨大な建造物の黒い影が見えるのと、濁って紫色がかった空と荒野の薄茶色が広がっているだけだった。
「毒砂がない空を見たことあるなんてなぁ。俺も一度は拝んでみたいもんだぜ」
鎖が言った。夢乙女は目線の先にある巨大な建造物が気になって見入っていたため、話を半分くらいしか聞いていなかった。
「ごめんなさい、よく聞いてなかった…」
「毒砂のない空、俺も見てぇなって」
「それじゃあ、私の街に来ますか?」
「デートの誘いなら喜んで行くぜ!」
朗らかな笑い声を上げる鎖に、夢乙女は沈んでいた気分が少しだけ浮き上がった。この人は他の人まで巻き込んでしまうくらい、元気で明るい。
駆け抜ける風はお世辞にも爽やかと言えないし、濁った空は気分の良いものではないけれど、こんな場所でも笑顔で生きていられるんだなと、夢乙女は感慨深かった。
暫く走り続けて、崩れた大きなビルのすぐ近くを通り過ぎると、鎖は後方を見遣った。
「面倒くせぇのが来たな…」
倒れたビルの陰から、バイクの急発進音が重なって響く。振り向けば、いかにもガラの悪そうな男たちが数人、バイクに跨り追いかけて来ていた。
「はははっ! 俺に挑むたぁ、いい度胸じゃねぇか。譲ちゃん、しっかり掴まってな!」
鎖が声を張り上げ、エンジン音が高鳴ると共に速度が一気に上がった。
強い風圧に薄く目を開けると、流れる景色の速さの中、怖そうな男たちは徐々に距離を詰めていた。片手には鉄の棒やら木刀やらを持っている。
「譲ちゃんには刺激が強いかもなー、目ぇつぶってたほうがいいかもなー。あと、舌噛んじまうから、しっかり口閉じてな?」
冗談なのか本気なのか、鎖が意味ありげに言った。
追走しているひとりが急激に速度を増し、すぐ右側へ車体を寄せる。振り下ろされた鉄の棒を鎖は前腕で受け止めると、すぐさま鉄の棒を掴んで奪い取った。鉄の棒を奪われた男は、バランスを崩して失速し、過ぎる景色の中に小さくなっていった。
「ほぉら、ダチの得物返してやるよ!」
悪戯な声を上げて、鎖は鉄の棒を真後ろに走っていた男へ投げつける。見事に顔面に喰らった男の身体が仰け反ってバイクから浮き上がり、地面に叩きつけられるようにして落ちた。
怒りの表情で左側へ寄って来た別の男に、鎖は勢い良く脇腹へ蹴りを入れた。ぐらりと体勢を崩した男は、眼前に迫っていたビルのコンクリートの壁に…。
夢乙女はぎゅっと目を閉じた。一瞬だけ見えた、恐怖の張り付いた男の顔が目に焼き付いて離れない。それから目を開けられないまま、夢乙女は鎖の背中に額を付けていた。
右へ左へと揺れる身体、時折走る衝撃、風圧の轟音の中から聞こえる何かがぶつかる鈍い音、鎖のからかう声と男たちの怒声。
ずっと力を入れ続けていた腕が痺れてきたころ、バイクはゆるゆると減速して止まった。
「大丈夫か?」
鎖の声に、夢乙女は目を開けて顔を上げた。
鎖がサングラスを少し上げて、こちらを見下ろす。
「危ねぇ目に遭わせちまったな。刺斬だったらもっと早くあいつら倒せてたかもなぁ。クロウだったら…いや、何でもねぇ」
肩を竦めて苦笑い。夢乙女も釣られて笑顔を作ったが、まだ身体に緊張が残っていたせいか微妙な笑顔になってしまった。
「悪ぃな、怖かったろ」
鎖は目を細めて、夢乙女の頭をぽんぽんと叩いた。大きな手は、優しい暖かさだった。
怖くなかったと言えば、嘘になる。本当はとても怖かった。…でも。そう言いたくは無かった。
「大丈夫ですよ」
夢乙女は、今度こそしっかりと笑顔を向けた。
「譲ちゃん、クロウに負けないくらい強がりだなぁ」
鎖はくくっと笑った。
「!」
突然の頬の冷たさに、夢乙女はびくりと身体が跳ねた。
「お疲れさん」
振り向けば、鎖が薄く水滴の付いた缶コーヒーを手にしていた。夢乙女はお礼を言って缶コーヒーを受け取った。
町外れの小さな公園。鎖は夢乙女をここへ連れて来たかったらしい。鎖の話では、この田舎町は小さいけれど、この辺りで一番綺麗で一番治安が良いのだそうだ。人通りは少ないが、ビルや住宅家屋が見える方からは、がやがやとした賑わいの音が聞こえる。初めて来た場所ではあったが、ありふれた日常風景にほのかな懐かしさを感じられた。鎖は田舎町だと言ったが、高層ビルや高架橋が多くあり、とても田舎には見えない都会街だった。
2人で公園のベンチに座り、遠くを眺める。
夢乙女は缶コーヒーをひと口飲む。甘いカフェオレで、冷たさとコクのある苦みに頭がすっきりした。ふぅと、深くひと呼吸する。
「鎖さんって、喧嘩強いんですね」
バイクで追いかけて来た男たちを思い出しながら、夢乙女は言った。
「ははっ。それほどでもねぇよ。まだアレならマシな方だ。もっと危ねぇのがわんさかいるからな。この辺は平和なもんだ」
鎖は飲み終わったコーヒーの空き缶を投げた。大きな弧を描いて飛んで行く缶は、30メートルほど離れた場所にあるアルミのゴミ箱にカランと音を立てて入った。音に驚いた数羽の小鳥が、薄茶色の芝生から飛び立って行く。
鎖の見事な投擲に見惚れていると、夢乙女はこの公園から感じていた違和感に気が付いた。芝生はあるが木が1本も無い。大抵の公園は木や花が植えてあるのだけど、ここの公園には見当たらなかった。町の方へ目を遣ってみても、街路樹すらも無い。緑の無い、灰色の町だった。
「この町には、よく来るんですか?」
「この町はまたに、だな。外出しすぎだって刺斬に言われてんだけどよ、俺ぁ外出てる方が好きなんだ。“外”は広くていいぜ。閉じ篭ってたら、身体にカビ生えちまうよ」
ケラケラと笑いながら、鎖が答えた。
ふと、細かな振動音がして、鎖がコートの中から何かを取り出した。見た目には携帯端末だったが、一般に良く見る物と違っているように見えた。少し気が引けたが、横目で画面を見ると「刺斬」の文字が映っていた。鎖はばつが悪い表情を浮かべてひと呼吸した後、電話には出ずにコートの中に戻す。
いいのかなぁ…と、思いながら、夢乙女は再びカフェオレを口にした。
空に太陽が昇り切っているが、やはり毒砂のせいで曇り空のような明るさしかなく、青みがかった灰色だった。ぼやけて頼りない太陽の光は、世界を照らす事を諦めているような雰囲気を感じる。
遠くを見遣ると、来る時に見えていたあの巨大な建造物の影が、ここからでも見えた。見る角度が違うからなのか、形が少し変わっていた。あの存在感は、不気味さを感じさせるせいなのだろうか。
「チェインさん、お久しぶり!」
公園に若い男の声が響いた。見れば、ぞろぞろと十数人の青年が集まっていた。
「おう、元気だったか?」
鎖が軽く手を挙げて挨拶を返す。
夢乙女は鎖がチェインと呼ばれた事に疑問を感じていると、鎖がそっと耳元に顔を寄せてきた。
「俺ぁ、外ではチェインって通り名だ。大っぴらに外歩けねぇ日陰者だからよ。ちなみに、刺斬は"ムラサメ"、クロウは"八咫烏"な」
と、小声で囁いた。
「こないだ、西町の暴れ者ぶっ倒したっての、チェインさんっしょ?」
期待の眼差しを鎖に注ぎながら、青年が尋ねた。
「西町? あー、あいつらなー。あっちから吹っかけてきやがったんだよ」
「うお! やっぱり! みんな手ェ焼いてたとこだったんですよ! さっすが!」
「あんまり言うなよ? 言い囃されんのは性に合わねぇ」
興奮する青年を制するように、鎖は少し低い声で返した。
青年は「分かってますって」と言いながら上機嫌で鎖の傍を離れると、入れ替わるようにして別の青年が寄って来る。
「前に、八咫烏さんが赤いキャップの子と茶髪っ子と3人で歩いてたんスけど、お友達スか?」
「何だって…?」
鎖が急に立ち上がった。
「いつだ!? どこで見た!?」
常とは違う真剣な顔で、鎖が大きな声を出した。声をかけた青年は、何事かと目を大きくする。
「北町の空き地の先歩いてましたよ。…1ヶ月も前スけど」
「…そ、そか。…あー、いや、そいつぁ八咫烏じゃねぇ。そんなダチいねぇよ」
鎖は肩を落として、ゆっくりとベンチに座り直した。
「違うんスか。世の中にはソックリな人がいると言うっスしね」
「あ、ああ…。そだな…」
鎖は白々しい返事をして、俯いた。その横顔を夢乙女は見ていた。サングラスの隙間から覗く、思い詰めた緊張の表情と突き刺すような鋭い目。獣の牙と見間違うくらい大きな犬歯でぎりりと歯を噛んでいたが、すぐに気分を入れ替えるように深呼吸をして顔を上げた。じっと夢乙女に見られていた事に気付いた鎖は、いつもの陽気な笑顔を見せた。
「ところで…」
おずおずとした態度で、また別の青年が夢乙女をちらちら見ながら鎖に声をかける。
「その可愛い子…。ま、まさか、チェインさんの女…ですか?」
「へ?」
突然の質問に、夢乙女は固まった。
「ぷっ…ぶははっ! バカ言うな、大事な客だ。お前ら、手ぇ出したらタダじゃおかねぇぞ!」
鎖は上を向いて大笑いをして、青年をジロリと見た。
「うっひょ、怖ぁ~!」
青年が大袈裟に怖がる仕草で飛び上がってみせると、どっと笑いが広がった。
他愛の無い談笑が続き、のどかな時間が過ぎる。夢乙女も青年たちとの会話に交じり、沢山の笑顔をもらい、沢山の笑顔を返した。
それじゃあ、また。と、最後まで残っていた青年が別れを告げると、公園には静けさが戻った。
日は傾き、薄暗さは増して、空は赤みを帯びてきている。
「さぁて、そろそろ戻るとすっかぁ」
鎖は立ち上がって大きく伸びをした。
「ありがとうございます。何だか、元気になれました」
夢乙女は立ち上がり、鎖に頭を下げた。突然の事に、鎖はぽかんと口を開ける。
「…お、おう…」
人差し指で頬を掻いて、鎖が照れくさそうに顔を伏せる。
「俺ぁ、その…人の励まし方とか分かんねぇから、ちっとでも気晴らしになったんなら、よかった」
わしゃわしゃと、大きな手で頭を撫でられて、夢乙女はくすぐったさに肩を竦めた。
気さくな笑顔。強さを鼻にかけない真っ直ぐな性格は、爽快そのもの。多くの人が鎖の人柄に惹かれている理由が、分かった気がした。もし鎖が地元の街に来てくれたら、毒砂の無い空に輝く太陽を指差して「鎖さんって太陽みたいだよね」と言ってみようと心に決めた。
鎖のバイクに乗ると、視界にあの巨大な建造物の影が見えて、夢乙女はそれを眺めた。
ここに来て見た時と形が変わっている。そんなはずは…と、思いながら記憶を辿るが、やはり形が違っていた。
「アレが気になんのか?」
夢乙女の目線の先に気が付いた鎖が、声を掛ける。
「アレは管理者がいる廃施設だ。一般人はまず近づかねぇ」
「管理者…?」
そういえば、Ⅸ籠が前にその名を言っていたのを思い出した。
「管理者は、何でも知ってんだ。クロウはエグゼに頼んで管理者のデータから譲ちゃんの街を調べてもらってる。エグゼはセキュリティ突き破ってデータ探してくれるんだが…今回は上手くできねぇらしい。あー、エグゼってのはクロウの知り合いな。ダチってわけじゃあねぇが」
話しながら、鎖はバイクに跨って、エンジンを掛ける。振動を伴う低い音が身体に響いた。
「直接、管理者に会うにも、あの"廃施設そのもの"が管理者だからな。そう簡単に入れてくれねぇ」
「あの建物、生きてるの?」
「ははっ、面白ぇこと言うな。でも間違っちゃいねぇ。生きてるって言ってもいいくらいだ。たま~に形が変わってやがる。前に運よく中に入れた連中は、内部構造が次々変わるって言ってたぜ。ありゃあ迷宮だ」
「そう…なんだ…」
夢乙女は遠くの廃施設から目を離せずに、半ば空返事で相槌を打った。
どうしてかは分からないけれど、管理者の事が気になって仕方が無かった。
日が沈む前に鎖たちの住む高層ビルに戻った。
リビングルームに入ると、険しい顔でタバコを咥えた刺斬がソファーに座っていた。目が怖い。
「おかえりなさい。楽しかったですか? …と、言いたいところっスけど…」
ふぅと、タバコの煙を吐く刺斬。
「鎖さん…。何故、電話出なかったんスか。勝手に夢乙女さん連れ出して。…クロウさん、ご機嫌斜めです」
「おうおう、機嫌損ねちまったか。んじゃ、こってり絞られに行って来ますかねぇ」
悪びれる様子も無く、鎖は陽気に手をぷらぷらと振る。
「譲ちゃん、またな!」
片目をつぶって万遍の笑顔を残し、軽やかな足取りで鎖は部屋を出て行った。