あるサラリーマンの体験

サージェイドという存在に関わった人のお話。


 天使なのか悪魔なのか分からないものを見た。多分、あれは疲れのせいで見えてしまっただけの幻覚だと思う。
 私はしがない下っ端サラリーマンだ。料理も下手な一人暮らしの何の取柄もない男。空想世界に浸れるほどの余裕はない。
 早番勤務で日が昇る前に出社し、休憩もそこそこに数時間の残業をこなして帰宅。そんなくたくたに疲れた日の帰り道だった。
 
 電車を乗り継ぎ、夕日も沈みかけた住宅街の道を力無く歩いていた。寒くも暑くもない日だったのに、嫌に寒気を感じていた。恐らく風邪だろう。昨日も勤務疲れでリビングで眠りこけてしまったのを思い出す。
 いつもと変わらぬ道を歩いていると、あまりに白すぎてまるで光っているように見える猫が道端に座っていた。この辺りの飼い猫だろうか。凛とした気品さのある猫だった。その猫が真っ赤な目でこちらを見ていた。
 特に興味も湧かず白い猫の横を通り過ぎる。ところが、白い猫は私の前へ飛び出し、進行を妨げるかのように足元に擦りついてきた。邪魔ったくなった私は短い休憩時間のせいで食いそびれた昼飯のおにぎりがあるのを思い出し、鞄から取り出した。中身は鮭だ。猫でも食べられるだろう。包み紙を広げて地面に置くと、猫はおにぎりの匂いを嗅ぎ始めた。
「食っていいぞ」
 そう言い残して、さっさとこの場を離れた。案の定、猫は付いてこなかった。猫はいいな。ああやって愛想振り撒いていれば可愛がってもらえるんだから。
「もっと楽に生きたいなぁ」
 今までの人生、パッとしないものだった。積もり積もった様々な不満から、思わず独り言が出てしまった。
 その瞬間、一陣の突風が吹いて、私は目を閉じた。僅かに目に入った砂埃に目を何度か瞬いて涙で洗い流す。
 不可思議な風に違和感を感じて周囲を見回すと、電線の上に「何か」がいた。
 白く光って見える真っ白な肌の子供。鮮やかな青い髪はとても長く、その頭には牛の角のように曲がった金色の角が生えていた。そして、その背には鳥の翼やコウモリような翼がたくさん生えていて、どれも色が抜けたように真っ白だった。宗教画で似たようなのを見たことがある。天使は階級が高いほど異様な姿をしている。どこの世界も上司は怖いなと思ったほどだ。
 天使とも悪魔ともつかない子供の片手にはゲームでありそうな光輝く槍が握られていて、その先の刃には真っ黒なスライムのようなものが刺さっていた。
 どう考えてもおかしい。不思議と恐怖を感じないのは、恐らく現実離れしすぎてるからだろう。酷い疲れのせいで幻覚が見えているのかもしれない。明日は仕事帰りに病院に行こうと冷静に考えた。その反面、ほんの少しだけ期待してしまった。もしこれが現実なら、疲れて過ぎていくだけの日常から異世界へ迷い込むファンタジーものの漫画や小説の主人公みたいになれるのでは…と。
 子供は真っ赤な瞳で私を見て笑った。さっきおにぎりをあげた白い猫の姿が思考を過る。そしてふわりと飛び上がると、溶けるように消えていった。
 やはり幻覚だった。私は溜め息をして再び歩き始めた。
 
 あの日以来、私はすこぶる体調が良くなり、仕事もうまくいくようになって自信が付いた。偶然に出会った幼馴染と意気投合して結婚を前提に付き合うにまで至った。何もかも順調だ。あの幻覚で見た存在が私に憑いていた悪いものを取ってくれたのかもしれない。
 幻覚で見た存在が現実のものだったのかどうかなんて、今更分かるはずも無いし調べようもない。人に話したところで笑い話にされるオチだ。
 それでも、私にとっては人生の転機を与えてくれた神様のようなものだ。目の赤い猫にはあの日以来会えていないが、白い猫に会ったら挨拶するのが私の癖になっていた。
 
 
 
 
 
終わる

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