TOOL 1
カタカタカタ…
薄暗い空間に、無機質なコンピュータの音だけがする。
思考を埋め尽す、0と1の螺旋。延々と続く、数列。
狭くは無いはずの部屋は、整然と並ぶ大型コンピュータにすっかりと支配され、本来の広さなど微塵も感じさせない。
紅い髪の小さな子供が鉄の椅子に座っていた。
気が付いた時には、そこにいた。
今まで何をしていたかなんて解らない。
けれど、自分のやるべき事は知っている。経験の無い記録ばかりがある。
だから、その記録に従っていた。従うしか無かった。
それしか無かった。
どうしてかは解らないけれど、そういうふうになっていた。
身体中に接続された沢山のコードは、大きな知識の鉄塊たちに繋がっている。
互いに0と1を交換し、それが何であるのかを瞬時に理解し、それをどう処理するのかを即断する。
ずっと、ずっと。
ただ、それの繰り返し。
膨大な量の数列が駆け抜ける毎日。
数列の情報を知ってはいても、それが何なのか知ろうとは思わなかった。
それが、当たり前の事だから。
知りうる情報を理解した所で、どうなりもしない。
与えられた事だけを義務的に行う。
それが、当り前。
ドオン!
ある時、部屋の近くから地響きにも似た音が聞こえた。
初めての事だった。
何よりもまず、情報を護らなければならないと判断した。
全ての情報をネットワークを通じて、安全な所へとコピーする。
この部屋から最も遠い地区のメインコンピュータに、一時的な避難を。
ゴシャン!
鉄を砕くような音がして、部屋の中が少しだけ明るくなる。
部屋の扉が、無くなっていた。
無くなった扉の代わりに、誰かがいた。
それは情報の中に無い存在だった。
白衣を着た研究員ではない。
大人ですらない。
自分より少しだけ幼い子供。
赤茶色の髪をした子供。
暗い部屋で、その真っ赤な目だけが異様に目立っていた。
「誰?」
こちらが声を発するのと同時に、その子供も同じ事を言った。
次の瞬間には、電子頭脳が反応した。
“侵入者確認… 侵入者ハ 排除セヨ”
消さなくては。
殺さなければ。
神経回路を部屋全体に繋ぐ。
床や壁、天井の鉄板が瞬時に変型して重火器になる。
その全てが侵入者に標準を合わせる。一寸の狂いも無く、正確に。
赤茶色の髪をした少年は目を丸くして、半歩だけ後ずさる。
「お前、名前は?」
小さな侵入者は、そう尋ねてきた。それは予測範囲に無い行動だった。
まだ撃つ必要は無い。侵入者の危険性の確認してからでも遅く無い。
「喋れないのか? 名前を知らないのか?」
名前。
自分の名前を知っている。
一度も呼ばれたことは無いけれど。
「エレクトロ…」
「ふうん。エレクトロか」
名前は、呼ばれて初めて意味を持つ。
自分の存在を、この子供は認識してくれた。
少しだけ、演算処理が遅くなる。
何だろう、これは。これは、知らないものだ。
テキストデータに残せない、文章に出来ない、何か。
「オレはグラビティって呼ばれてる。…お前、利用されてんのか?」
グラビティ。その固有名詞を記憶しておく必要はあるだろうか。
人間が自分を使うのは当り前の事。どうしてそれを訊くのだろう。
「人間に利用されるのは、当然の事だ」
「・・・そういうふうに、教えられたんだな」
この少年が、何を言っているのか理解出来ない。考えようとすると演算処理が遅れる。
常時、直接に電子頭脳に流れる情報とは違い、外部からの情報を受けるのには慣れていないせいもあるかもしれない。
「なぁ、エレクトロ。ここは…」
パン!
乾いた音がして、グラビティと名乗った侵入者はゆっくりと倒れる。その首には麻酔弾が刺さっていた。
数人の警備員が部屋に走り込んで少年を掴み上げると、部屋を出て行った。
「データは無事か?」
後から入って来た研究員が、そう訊いた。
頷くと、その研究員は何も言わずに部屋を出て行った。
データの消失も損傷も無い。遠くの地区に一時的に避難させたコピーデータはもう必要無い。
その後、すぐに扉は修理されて、薄暗い部屋に戻った。
繰り返す、0と1の螺旋。
記憶して、整理して、交換して。
それだけを考える。
あくる日、研究員に連れられて、初めて部屋を出た。
連れて行かれたのは、隣の部屋。
その部屋の中央にある大掛かりな手術台に寝かされて、一時だけ眠った。
“目”が繋がった。
ここの施設内のあらゆる所に付けられ、網の目のようにネットワークで繋がる“目”。
その“目”で、不審な事が無いか監視するように命令を受けた。自分と“目”が繋がる以前の映像データの保存も任された。
何かあればセキュリティを作動させ、地区を封鎖するなどの処置をするように。
巨大な施設の全てに神経回路が繋がり、自分の身体の一部になった。
第7地区で、あの時の侵入者の姿を見た。
多量に並ぶ檻のひとつ。その中で眠っていた。
その檻を抜け出して、ここまで来たのか。
グラビティ。
この固有名詞を削除しなかった。
必要のないデータでしかないけれど、削除しなかった。
知識として得た記録では無く、経験として得た記憶。
…削除したくなかった。
初めて、自分がそうしたいと思った事だった。
どうしてだろう。あり得る可能性をいくら想定しても、それが解らない。
有り余る、莫大な量の知識を持っていても、答えを出せない。
意識では無く、“意志”だった。
グラビティはあの時、何を言いかけていたのだろう。
“ここ”が、何だと言いたかったのだろう。
考えようとすると、演算処理が遅れる。
遅らせてはいけない。
だから、これ以上は考えてはいけない。
与えられた事だけを義務的に行う。
ずっと、ずっと。
ただ、それの繰り返し。
それが、当り前。
終わる