籠ノ鴉-カゴノトリ- 5

これでこのお話は完結になります。


「か…解…り…せ? 何だよそれ」
 刺斬の言った言葉が分からずに、鎖は隣に座る刺斬に聞き返した。
 外出から戻ると、刺斬の部屋のテーブルには見た事の無い本が積まれていた。真剣な顔でその中の一冊を読んでいた刺斬が神妙な顔付きで手招きをするので、それに促されてソファーの隣に腰を下ろして今に至る。
「解離性同一性障害。…俗に言う、多重人格スよ。俺も本読み始めたとこなんで、詳しくは分からないスけど」
 刺斬がタバコの煙を吐く。白い煙が部屋の中に広がって薄らいだころ、溜め息をひとつ。
「多重人格…」
 鎖は小さく呟いた。多重人格については何となく知っている。全然違う性格になるという話は聞いた事がある。俄かには信じられないが、Ⅸ籠が好きな物を嫌いと言ったり、やった事をやってないと言うのは、違う人格と入れ替わっていたせいだと思えば、今までの矛盾した言動も納得できる。
「クロウさんの担当医を調べて聞いてきました。脅して吐かせたら、クロウさんの人格が変わる事、知ってやがったんスよ」
 言いながら刺斬はタバコを灰皿へ押し付けて、本を閉じた。
「いくつか、えらい戦闘能力が高い人格がいるそうです。なので、上はクロウさんを治療する気は無いって結論だそうで。上の連中、強いクロウさんの人格コントロールできればって考えてるらしいです。それで、あの手この手で引っ張り出そうとしてるみたいなんスよ。前に鎖さんとやり合ったクロウさんがその人格か、二番手っぽいスね」
 刺斬の話に、鎖はゆっくりと目を伏せた。
 意図的だったのか偶発的だったのかは分からないが、上の連中はⅨ籠の人格を変えるのに成功したという事か。手に負えなくてこちらに尻拭いさせたという事だろう。こちらがⅨ籠の様子がおかしいと報告したら処罰を変えたというのも、変な疑いを避けるためだったのかもしれない。
「いや、無理だろ…」
 鎖は小さく呟いた。あのⅨ籠はこの世の全てに敵対するように誰彼構わず殺してた。とてもあれが言う事を聞くようになるとは思えない。徒労と損害しか残らないだろう。
 それに、あのⅨ籠は死にたがってる。殺されたくて目につく者を殺してたと思えなくもない。
「あのクロウは、そっとしておいてやったほうがいい。組織のためにも、Ⅸ籠のためにも、な」
 鎖は、死にたがってたⅨ籠の事を刺斬に話さなかったのを少しだけ気にしながら、テーブルに積まれている本を見遣る。
「上の連中、知ってたなら教えろってんだ。今までⅨ籠と話が食い違うから怒鳴っちまってたよ…」
「俺も随分と気が変わる子だと思ってたんスよ。日によって食べ物の好みを変えてるのかと思って、記録してました」
「お前、ほんっとマメだな…」
 鎖は刺斬らしいなと心の中で頷いて、2本目のタバコに火を点ける刺斬を横目で見る。
「…で、治す方法あんのか? 原因とかあんだろ?」
「主な原因は、小さい頃からの極度のストレス、過剰な自己過小評価、恐怖心なんかも…。本読み始めたばかりスけど、治らないものではないみたいスね」
「そういう悩みとは無縁にしか見えねぇぞ、あいつ…」
 鎖はソファーの背もたれに背中を付けて、天井を見上げた。Ⅸ籠にそんな気持ちがあるなんて、とても信じられない。
 上層部からの命令には、顔色変えずに受けているのが実は嫌なのだろうか。
 あんなに戦闘能力が高いのに、自信が無いなんておかしい。
 周りを恐怖させるくらいの存在なのに、何を怖がる必要があるのか。
 と、なると、他に思い当たるとしたら。これはオリジナルを知っているクローンであれば、誰もが思うことではあるけれど。
「赤ヘルの存在が負担になってんのか? 会った事もないってのに?」
「俺は赤ヘルのせいだと思ってます。…って、え? …何スか?」
 刺斬が目を大きくした。開いた口からタバコを落としそうになる。
「鎖さん、何言ってんスか。クロウさんは赤ヘルと仲良かったんスよ?」
「あ? 刺斬こそ何言ってんだ?」
 鎖は眉をひそめた。刺斬が嘘や冗談を言っているようにも見えない。
「ンなわけねぇだろ。前にクロウと話した時に、アーミィってどんなヤツかなって言ってたぞ」
「どういうことスか…」
 刺斬が顔をしかめた。
「いや、俺が聞きてぇよ。赤ヘルと仲良かったってどういうことだよ?」
「覚えてません? 何年か前に、廊下で転んだ子供にお菓子あげたの…。あれクロウさんっスよ」
「え…」
 刺斬に言われ、鎖は頭の中の記憶を探る。記憶の片隅で消えかかっていたが、そういう事があったような。
「ちょこまか走ってて目の前で転んだガキか。刺斬よく覚えてんなぁ」
 思い出した。起き上がらせてやったら、笑顔で挨拶してきた小さい子供。あれはⅨ籠だったのか。
「菓子あげた時に、兄ちゃんと食べるって言いましたよ。その後も赤ヘルのこと、いろいろ話してたじゃないスか」
「言ってた…な…」
 鎖は記憶の中のⅨ籠を思い出した。内容は忘れてしまったが、兄が大好きなんだなっていう印象を受けたのは確かだ。
 でも、どうも腑に落ちない。
「そんな大好きだった兄貴の事、忘れるかぁ?」
「そこっスよね。鎖さんを疑うわけじゃないスけど、クロウさんに直接聞いてみるしか…」
「おい、もし本当に赤ヘル気にしてんなら、それ聞いたら可哀想だろ」
「まあ…そうっスね…」
 刺斬は苦笑いを浮かべて、灰皿にタバコの灰を落とした。
「あと、もうひとつ不可解な事が…」
「あ? まだあんのか?」
「俺の憶測で確証はないんスけど、クロウさんの人格は保管されてる失敗したクローンの性格っぽいんスよ…」
「あ? 何だそりゃ…」
「他の誰かを真似た思い込みの人格ってのも有り得るらしいんで。あれだけ執着して大事にしてるから、十分可能性は…」
「じゃあ、それだ!」
 鎖は身を乗り出して刺斬に顔を近づけた。
「な、何スか」
 目を丸くする刺斬の隣で、鎖は勢いよく立ち上がる。
「クロウの兄貴たちをぶっ壊せば、クロウの人格は1つに戻る」
「へ?」
 気圧された刺斬は、目をぱちぱちとさせた。
 
 
 
「いやいやいや! やめましょう!? 鎖さん、考えが滅茶苦茶スよ!?」
 後ろから刺斬の制止する声が飛んでくる。が、鎖は構わず廊下を進んだ。
 鎖には、どうしても原因が失敗作のクローンにしか思えなかった。実際に見たことは無いが、刺斬の話では無理矢理に生かされてるようなものでしかない、と。そんなものを兄として慕って大切にしているのだから、まともな精神状態ではない。
 足を止めない鎖に諦めがついたのか、しばらくすると刺斬は黙って後ろに付いていた。
 静まり返った廊下。この付近はⅨ籠を恐れて誰も通ろうとしないから、人が滅多に来ない。そのせいか少しだけ空気は綺麗だし、温度も低い。そんな廊下の奥まった所に、目的の場所はあった。
 物々しい鉄の扉。本来は居住空間として使う部屋ではないので、当然、構内通話装置は付いていない。
 鎖は鉄の扉を叩いてみたが、中から返事は無かった。
「戻ってねぇのか?」
「寝てるんじゃないスかね。クロウさん、他に行くような場所は無いし…」
 訝しむ鎖の隣で、刺斬が小さく言った。
「クロウが寝るなんて珍しいな。寝てんなら都合いいんだけどよ」
「どういうことスか」
「クロウが知らない間に兄貴たちぶっ壊そう…かな、って」
「どうしてもやる気スか」
 やや低い声で、不満を込めた口調で、刺斬が言う。
「兄貴たちがいなくなれば、クロウしか残らねぇだろ」
「そんな確証無いっスよ」
「やってみなきゃ分かんねぇだろ!」
「そんな事したら取り返しつかないんスよ!」
「……」
「……」
 鎖と刺斬は、同時に言葉に詰まって固まった。
「刺斬の言ってる事は分かるけどよ…」
「鎖さんの気持ちは分かりますが…」
 2人同時に言葉をかけ、互いに目を逸らして、長い溜め息をする。
 鎖はもやもやとした気持でいた。刺斬の言う事も、分かってはいる。この荒治療が成功すれば組織への反抗になり、成功しても失敗してもⅨ籠に恨まれて殺されるかもしれない。刺斬はどちらの意味でもやめた方がいいと言ってくれている。
 それでも。
「俺はな、組織もⅨ籠も大事なんだよ。もちろん、お前の事もだ」
「急に、何言い出すんスか。…そう思ってるなら、無茶な事しないでください」
「Ⅸ籠が治れば、上は諦めるだろ。Ⅸ籠の暴走も無くなる。これ以上マシな事あるか?」
「それは治る前提の話じゃないスか。もしクロウさんの状態が悪化したらどうします? 俺はそんなことさせたくない」
「刺斬は考え方がマイナスなんだよ!」
「鎖さんはいつも考えが無謀っスよ!」
「……」
「……」
 鎖と刺斬は、再び同時に言葉に詰まって固まった。
 鎖は眉間にしわを寄せて、後ろ頭を掻く。刺斬との話に埒が明かない。
 冷えた廊下は、2人の会話が止まると無音の世界が広がった。
「ホントに寝てんのか? 薬飲みすぎて死んでねぇだろな?」
 廊下で大声を出していたのにⅨ籠が部屋から出て来ない事に、鎖は怪しんだ。
「物騒な事言わないでくださいよ」
「コレ、どうやって開けんだ?」
「重要機密の部屋なんで、他のと違う造りなんスよ。多分、生体認識型だと思…」
「面倒くせぇッ!」
 鎖は扉に思いきり蹴りを入れた。大きな鈍い音が振動と共に廊下に響く。
「チッ…、さすがに硬ぇな」
「鎖さん、やめてください」
 刺斬が鎖の腕を掴んで制止する。
「放せ刺斬、クロウに何かあったらどうすんだ!」
「何でも壊す方向で解決しようとするのは、悪い癖っスよ!」
「じゃあ、どうしろって…、あ…」
 鎖は息を呑んで固まった。少し離れた所で立ち止まっているⅨ籠の姿があった。いつも足音を立てないものだから、ここまで近づかれるまで全く気が付かなかった。
「お前たち、何してる…」
 鎖と目が合うと、Ⅸ籠は怪訝な表情で目を細めた。
「ボスこそ、どこへ…」
 刺斬もⅨ籠に気付いて、振り返る。
「どこだっていいだろ。お前たちに関係ない」
 気の無い様子で答えるⅨ籠の手には、薬が詰まった瓶が握られているのに鎖は気付いた。薬をもらいに行っていたらしい。Ⅸ籠は鎖の視線が薬の瓶に注がれているのを知ると、瓶を隠すように手を後ろへ回した。
「お前たちがケンカなんて珍しいな」
「いえ、喧嘩では…」
 Ⅸ籠に弁解しようとする刺斬を、鎖は急いで押しのけてⅨ籠の前に立つ。
「クロウ聞いてくれよ! 刺斬が俺のチョコスナック食っちまったんだよ!」
「は?」
 刺斬は訳が分からず困惑の表情で目を見開く。
「刺斬、鎖のお菓子、勝手に食べたのか?」
「え、あ、その…」
 刺斬が言葉に迷うと、鎖は肘で脇腹を小突いた。
「あー、はい。どうしても、腹が減ってたんで…」
 刺斬は、少し頭を下げて答えた。話を合わせてくれた刺斬に感謝しつつ、鎖はⅨ籠の様子を注意して見ていた。
「お前が甘いもの食べるなんて…。でも鎖の許可は取るべきだったな。次から気を付け…」
「あぁ~、俺のオヤツ~! 楽しみにしーてーたーのーにー!」
 鎖はⅨ籠が言い終わる前に大げさな仕草で頭を抱え、今にも泣き崩れそうな声を上げる。そのわざとらしい演技に刺斬は笑いを堪えるのに必死だったが、Ⅸ籠は鎖の取り乱し様に驚いているようだった。
「そんなに好きなお菓子だったのか? 鎖が好きか分からないけど、お菓子ならあるから。ちょっと待ってて」
 鎖の雑な演技でも、Ⅸ籠は疑わずに信じたらしい。扉に手の平を付けると扉が開いて、Ⅸ籠は部屋の中へ入って行った。
「…鎖さん、何考えてんスか」
 刺斬が小声で言うと、鎖は横目で刺斬を見てにやりと笑った。
「…クロウの兄貴の部屋に侵入」
「俺は胃が痛いっス…」
 間もなくして、Ⅸ籠が部屋から出て来た。菓子の袋をいくつか抱えている。
「ほら、好きなだけ持っていっていいぞ」
「えーっと…。あー、コレ。やっぱりコレがいいかなー?」
 差し出してきた袋を選ぶふりをして、鎖はⅨ籠に身を近づける。気づかれない様に、コートのポケットに入れておいた物に手を伸ばした。
「クロウは、コレとコレ、どっちが好きだ?」
「そんなの気にしないで、鎖が好きなの選べ。迷うくらいなら、全部持っていけばいい。…刺斬、お前も好きなのあれば…」
 Ⅸ籠が刺斬の方へ顔を向けた瞬間、鎖は一瞬にしてⅨ籠を抱きすくめて、ポケットに入れていた麻酔薬をⅨ籠の首に打ち込んだ。
「…てめぇッ!!」
 常より低い声でⅨ籠が叫んだ。
「鎖さん!」
 刺斬が声を出すと同時に、うなじにちくりと痛みが走る。危険を感じてすぐさまⅨ籠から身体を離すと、クナイを持ったⅨ籠の腕を刺斬が掴み上げていた。刺斬がⅨ籠の手を掴んでくれなかったら、首を刺されていたところだった。
「お前、クロウの別のやつか?」
「うるさいッ! てめぇら…騙しやがったな…っ…」
 鎖が声をかけると、Ⅸ籠は鋭い目付きでぎりりと歯を噛んで、目を閉じた。くたりと倒れそうになるⅨ籠の身体を刺斬が支えて、片腕で抱き上げる。
「……」
 刺斬が、半眼で鎖を見据える。刺斬を怒らせてしまったと気付いた鎖は、気まずい表情を浮かべて頭を下げた。
「危ないですよ! クロウさん、一瞬躊躇ったから間に合ったんスよ!?」
「悪ぃ悪ぃ。助かったぜ、刺斬。まさか反射行動で刺してくるとは思わなかった。よく訓練されてんな。こういうのって身に染みてねぇとできねぇよなぁ」
「関心してる場合じゃないスよ! 本当、もう勘弁してください。危ない橋選んで渡ってんスか」
 刺斬は深い溜め息をしながら、頭を振る。
「いつの間に麻酔まで用意して…。この事、計画してたなら先に言ってくださいよ」
「いやぁ、計画なんてしてねぇ。行き当たりばったりだ。その麻酔は、前にクロウとやりあった時のな。クロウ用に調合した即効性の特性薬だって聞いたから、もしもの時のために1本もらっといた」
「あの時、医療班が麻酔の数合わないって騒いでましたけど…」
「ははっ、内緒にな」
 悪びれる様子も無く笑いを浮かべて、鎖は落ちた菓子の袋とⅨ籠のクナイを拾う。半開きの扉の奥を見遣ると、薄暗い空間が目に入った。
「本当にやるんスか? 今ならまだ後戻りできますよ?」
 刺斬が制止を含めた口調で言うと、鎖は苦い笑顔を浮かべた。
「悪ぃな、刺斬。俺ぁ正義の味方じゃねぇんだよ」
「わかりました」
 刺斬はそれ以上は何も言わず、鎖の気持ちを汲んでくれた。
 
 
 
 生命維持装置の音が静かに流れる薄暗い部屋は、綿埃のひとつも無く、整然なほど綺麗にされている。一定の温度で保たれたその部屋は、少し肌寒かった。が、寒気がしたのはその肌寒さのせいではなかった。
「……」
 鎖は部屋の中を見回して目を薄めた。想像していた以上に気味が悪かった。
「おい、コレ、ただの塊じゃねぇか…」
 人の身体のどこの部分とも説明できない、人の頭ほどの肉の塊を見て、鎖は刺斬の方へ目を向けた。刺斬は部屋の隅にあるベッドにⅨ籠を寝かせながら振り向く。
「それは、2番目のクローンです。この中では一番年上に当たります。クロウさんはよくそれに甘えてるそうです」
「どうやってだよ…」
 鎖は顔を引きつらせた。水槽の溶液に漂う薄紅色の塊は数本のチューブに繋がれ、規則正しい脈に合わせて微かに動いている。生きているのは間違いないが、そこに意識があって生きているとは到底思えなかった。
 他の水槽には、腕なのか脚なのか分からないものが生えた塊もあった。時々動いては、ガラスに当たって小さな音を立てている。他のは人の形をしていたが、内臓が入ってないらしい腹や頭が異様に凹んだのと、おそらく殆ど死体であろう皮膚が所々剥がれ落ちてるのがいた。
 鎖は一番端にある水槽に目を止める。Ⅸ籠を少し幼くしたような子が膝を抱えて目を閉じていた。
「これは一番クロウに似てんな」
「それは8番目っスね。脳死か植物人間だと思います。クロウさんにとっては一番歳の近いお兄様で、話し相手だそうです」
 刺斬が傍へ寄って来て、神妙な目線を向ける。
「話し相手ねぇ…」
 鎖は溜め息交じりに相槌を打った。部屋の奥に目を遣ると、檻の中で両手両足に枷を付けられて横たわっている青年が見えた。
「あれは7番目。クロウさんが世話してます。あの成長具合からして、永久少年の可能性は低いと思います」
 鎖の視線の先に合わせて、刺斬が説明をする。
「精神破綻してるんで、、大声上げて噛み付いたり引っ掻いてきます。近づかない方がいいスよ」
「クロウがたまに細かい怪我してんのは、あいつのせいか」
 目を凝らして見ると、二の腕にⅦの番号が刻印されているのが見える。痩せてはいるが、身体つきはしっかりしてそうだった。ある程度は訓練されていたが、駄目になったんだと予想がつく。
「クロウは、ああならねぇよな…?」
「…そうだといいですね」
 刺斬は静かに答えて、寝ているⅨ籠をちらりと見た。
「それじゃ、クロウが起きる前にカタ付けるか」
 深呼吸して、鎖がポキポキと指を鳴らす。
「こんな水槽の中で何もできないで生きてるなんて楽しいか? ンなこたぁねぇよな? じゃあ、俺が自由にしてやるよ!」
 鎖は声を大きくした。今まで任務で何人もの命を奪ってきた。だから迷う必要なんて無かった。そう理解しているはずなのに、心に引っかかる罪悪感。それを正当化するための言葉だった。
 しかし、鎖が勢いよく殴った水槽のガラスは、ヒビひとつ入らなかった。
「マジかよ。硬ぇな。そこらの強化ガラスじゃねぇのか?」
「重要機密の部屋なんで、それなりの強度ってとこっスかね」
 隣で刺斬が蹴りを繰り出したが、鈍い音が響いただけで、やはり傷ひとつ付かなかった。
「電源、落としちまうか」
 鎖がぽつりと呟いて、水槽の隣に設置されている生命維持装置の配線に視線を落とす。命を繋ぐにはあまりに頼りない細いものだった。引っ張ってみれば、見た目通りの弱さで機器から抜ける。断線した水槽の住人は少しの間痙攣して、やがて動かなくなっていった。
 こんなにあっさりと死んでいくのに、鎖は少しだけ気が楽になる。Ⅸ籠では無いとはいえ、Ⅸ籠によく似た者の首を絞めるのは気が重いと思っていたからだった。ガラスが割れなかったのは幸いだったかもしれない。鼓動の代わりだった生命維持装置の音は消え、ただただ静かに生かされていた命たちは次々と潰えていった。
「お前で最後だな」
 檻の前に立って、鎖は中にいる青年を見下ろす。伸びた前髪の隙間から、じっと見上げているのが見えた。もしⅨ籠が成長したらこうだろうと容易に想像がつく顔立ちだったが、Ⅸ籠と違って金色の瞳ではなかった。
 鎖は身を屈めて、ゆっくりと手を伸ばす。格子の隙間から片手で青年の首を掴んだ。痩せた細い首だった。握る手に力を込めると、青年は唸るような声を出して引っ掻いてきたが、すぐに力を抜いて首を掴む手を自分から首に押し付ける。それは以前にⅨ籠が暴れてた時の行動と全く同じだった。
「…お前…あの時のクロウ…?」
 全身に鳥肌が立つような悪寒が走った。もしかして、殺されたくて精神破綻したふりをしていたのだろうか。この事をⅨ籠は気付いていなかったのか、気付いていたけどそうしたくなかったのか。
 もし、そうだとしたら。
 Ⅸ籠の別人格は疾患によるものではなく、本当に取り憑かれていたのだろうか。それとも、Ⅸ籠は何らかの方法でこのクローンたちと意思の疎通をしていて、動けない兄たちの代わりをしていたのだろうか。
 でも、どう考えても、そんな事は有り得ない。
「どうしました?」
 鎖の様子を心配して、刺斬がそっと声をかける。
「いや、何でもねぇ…」
 鎖は首を振る。そして、苦しそうに口を開ける青年の耳元に顔を近づけた。
「…ゆっくり休め。お前たちはもう自由だ」
 言葉が通じたのかどうか分からないが、薄い笑顔で青年は目を閉じた。Ⅸ籠がよく見せる笑顔に酷似していた。
 脈拍の消えた首から手を離して、鎖は唇を噛む。
 どれが真実だったのか、もう知る方法が無かった。
 
 
 
 物音ひとつしなくなった部屋に、深く眠ったままのⅨ籠を残して、鎖と刺斬はこの場を去った。
 鎖はⅨ籠の目が覚めるまで残りたかったのだが、刺斬はそれを激しく反対した。刺斬はⅨ籠が兄たちを失った事に逆上して襲い掛かってくると考えていた。その可能性については鎖も分かっていての判断だったが、これ以上刺斬を不安にさせるのも気が引けて刺斬の意見に従った。
 それから数日間、Ⅸ籠は部屋から出る事はなく、上層部からの出撃命令にも従わなかった。Ⅸ籠が命令を無視したのは初めての事だったが、鎖と刺斬は口を合わせて言い訳をして事無きを得た。
 鎖は刺斬には内緒でⅨ籠の所へ足を運んだ。心に爪を立てる罪悪感に逆らえずに突き動かされての行動だった。
 部屋を訪れたら、錯乱しているⅨ籠が飛び出してきて、廊下の壁に後ろ頭を叩きつけられた。大事な兄たちを失わせた、せめてもの罪滅ぼしのつもりで、Ⅸ籠からの暴行を抵抗しないで受け入れた。Ⅸ籠は武器を持っていなかったが、相変わらず小さい身体に似合わない馬鹿力で殴られて、意識が飛びかけたがそこは何とか耐えた。
 少しの間暴れていた後、Ⅸ籠に泣き付かれた。泣かれるのは苦手なんだが。
「どしたよ?」
 Ⅸ籠が落ち着いてきた頃、理由は知っているのに、白々しく声をかけた。
「…悪かった。鎖に怪我させた」
「そんなのどうだっていいだろ。気にすんな」
 鎖は全く平気であると意思表示に笑顔を向けたが、Ⅸ籠は浮かない表情のままだった。
「オレ、ひとりになっちゃった…」
 Ⅸ籠の言葉に、鎖は一瞬息が詰まった。
「俺と刺斬がいるだろ。ひとりじゃねぇよ」
 言い聞かせるようにかけた言葉だったが、Ⅸ籠には今一歩届かないようだった。Ⅸ籠は鎖から半歩身を退いて目を逸らした。
「身体、だいじょぶか? 気分が悪いとか、ないか?」
「何だか、調子がいいんだ。ずっと昔から頭痛かったの無くなったし」
「そか。そりゃあ、よかったな」
 鎖は、肩の荷が下りた気がした。Ⅸ籠は目の下に隈はあったが、はっきりとした目線で見上げてくる。以前よりも鋭くない、温和な視線だった。精神状態は落ち着いているように見えた。
「それでね、兄ちゃ…じゃなくて、赤ヘルと一緒にいたこと思い出した」
「え…」
 鎖は、はっとして目を大きくした。やはりⅨ籠は赤ヘルの事を忘れていたのか。精神的なものが記憶に影響していたのか定かではないが、これで刺斬との話に辻褄が合う。
「…どうして兄ちゃんは裏切ったんだ?」
「それは俺には分からねぇな。上の連中がそう言ってるだけで…」
「オレ、兄ちゃんに悪い事した? 嫌われた?」
「……」
 Ⅸ籠の問いかけの返答に困っていると、Ⅸ籠は特に返答が欲しかったわけではなかったのか、目を閉じて小さな声でうーんと唸った。そしてすぐに目を開く。
「兄ちゃんのこと、始末すればいいんだよね? 上の人の命令だもんね?」
 見上げてくるⅨ籠の金色の瞳には迷いの無い確固たる決心をした様子を感じたが、それが何に対してのものなのか鎖には分からなかった。
「そうだな…」
「ふふっ…」
 頷いた鎖の様子に満足したのか、Ⅸ籠は忍び笑いをしてくるりと身を翻すと、ゆっくりと首だけ振り向いた。
「ねぇ、鎖。オレね、強くなったんだよ。ひとりになったけど、その代わり強くなったから。あははっ」
 以前には無かった明るい笑顔。人を避けるような冷めた口調ではなく、弾むような軽やかな声。
 鎖にはⅨ籠の言っている意味がよく理解できなかったが、少なくとも悪いようには感じなかった。こんなに明るく話をしてくれるⅨ籠は初めてだった。
「まあ、ひとまずメシ食えよ。ずっと部屋に閉じ籠もってて何も食ってねぇだろ? で、メシ食ったら寝ろ。目の下に隈できてんじゃねぇか。ひっでぇ顔してんぞ」
 そう言うと、Ⅸ籠は自分の顔をぺたぺたと触って、気恥ずかしそうに唇を噛んだ。
 そんなⅨ籠の頭を撫でると、Ⅸ籠は一瞬目を見開いて身構えたが、拒む様子はなく素直に身を任せていた。
 鎖は、違和感がして早々に手を離した。このⅨ籠は頭を撫でると忌避するⅨ籠と違う。以前よりも気を許してくれたのか、それとも…。
「お腹は空いてない。…でも、刺斬が喜ぶなら、少しだけ…食べてやろうかな」
「そうしてやれ」
 Ⅸ籠に何か奇妙なものを感じたが、気のせいだろうと思い直した。刺斬もⅨ籠の事をとても心配している、早く会わせてやりたかった。
 歩き始めるⅨ籠の隣に付いて、扉が開きっ放しになっている部屋の前を通り過ぎようとした時、鎖は目を丸くした。
 薄暗い部屋の中は、数日前とは全く違っていた。割れたガラスの水槽。床に散らばったガラス片と広がって浸された水槽の養液に黒ずんだ赤色が混ざっているのが見える。あんなに綺麗だった部屋の変貌ぶりに、鎖は目が放せなくなって凍り付いた。大事にしていた兄たちの水槽を、何故割ったのか。そこにⅨ籠の兄たちの姿は無い。
 立ち止まる鎖に気付いたⅨ籠は、部屋の前に立ち塞がるようにして、鎖を見上げた。
「もうオレひとりになったし、この部屋、必要ないよ」
 そう言ってⅨ籠は後ろ手に扉に指先を触れて、扉を閉じた。
「クロウ。兄貴はどこへやった?」
「早く刺斬のところ行こうよ」
「お前、まさか…」
「オレは鎖がやったこと、すごく嫌だったけど許したんだよ? 7番目以外の兄さんたちは許してくれなかったから鎖を殴ったけど」
「何の…話し…」
 鎖は呟くように震えた声を出した。有り得ない。Ⅸ籠が知っているはずない。それは、Ⅸ籠の妄想なのか、それとも…。
「だから、もう“オレたち”のこと、放って置いて」
 
 
 
 どれが真実だったのか、それを知る方法はもう無く。
 その鴉は()を食い破って自由(ひとり)になった。
 
 
 
 
終わる

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