闇界

Ⅸ籠と刺斬のお話。


 昏い夕刻。
 毒素を含んだ大気は、沈みかける太陽の光で濁った血のような色に染まっていた。
 崩れた高層ビル群の隙間、底が見えないほど深い亀裂が入ったアスファルトの上を、Ⅸ籠は軽い足取りで歩いていた。
 途中まではギ・ターレン・カルクスで飛んで来たけれど、あの巨体を待機させておける場所がこの先に無いことを知っている。傾いたビルを薙ぎ倒して停まらせられなくもないが、この地をこれ以上破壊するようなことはしたくなかった。
 そこかしこに残る大型の機械や崩れたビルから突き出た鉄骨は、風化して殆ど原型を失っている。時々吹き抜ける風が、獣の唸り声のような音を立てて過ぎ去っていった。
 ここはかつて、世界の頂点にまで昇り詰めた工業国家であり、最先端の科学技術、最高の経済力、最強の軍事力を有していた。
 けれど今は、静かで誰も居ない、滅んだ国。それでもⅨ籠にとっては無下にできない場所だった。自分が生まれた国だから。
 本当はひとりでここに来たかった。けれどそれが許されるわけなく、後方には刺斬が付いて来ている。見失わない程度に距離をおいて付いて行くということで、お互いの譲歩となった。
 
 刻々と景色は色を変え、暗くなっていく。それに合わせるように、Ⅸ籠の右目は世界を正確に捉えるようになる。
 夜はいい。世界が明瞭に見える。昔、人は夜になると何も見えなくなると教えてもらった。だから暗闇を恐れるということも。そう教わっていたが、夜になると見えなくなるという感覚がⅨ籠には分からなかった。
 その代わり、目を閉じることには少し恐怖を感じるときがあるし、視界を塞がれるのは何よりも大嫌いだった。それと似たようなものかなと勝手に想像している。
 Ⅸ籠は、暗くなっていく世界と相反するように、普段は立てることの無い足音をわざと大きくして、歩みの速度を落としていった。
 刺斬は鎖よりも耳が利くと言っていた。視界が悪くてもある程度は音で周囲を視ることができる、と。だから、足音を立ててゆっくり進めば刺斬は迷わないはず。
 倒れた巨大な高層ビルのすぐ近くに差し掛かり、Ⅸ籠は不意に飛び退いた。
「っ…!」
 心臓が高鳴って身構えそうになった。割れたガラスに映った自分の顔を、あいつと見間違った。気の昂ぶった身体を抑えるように息を吐く。
 昔は、あいつの顔を見ると安心したりもした。
 でも、今は…。
 
 自分の顔が嫌いになったのも、あいつのせいだった。部屋に自分の姿が映るようなものは置かないし、鏡のある場所も避けていた。
 自分はあいつのクローンだから、同じ顔なのは当然だと分かっている。オリジナルとして、兄として、存在しているあいつのことが、憎たらしいのに大好きで、様々な感情がよく分からない錯覚を起こしてしまう。それが嫌で、自分の顔に傷をつけたことがあった。周りからの騒がれようが大事になって、上から怒られた。その時の顔の傷はとても深かったのに、もう跡形もなく消えている。少しくらい傷痕が残ってくれたほうが、よかったのに。
 
 倒れた巨大な高層ビルを通り過ぎるころには、辺りはすっかり暗闇に包まれていた。一切の光を許さない暗黒の世界は、この右目にとても鮮明に映る。研ぎ澄まされる感覚は、鋭利に、精密に。拡がる意識は、万物を掌握できるような、この闇そのものが自分の一部のような。
 刺斬にはもうとっくに見えない世界になっているかもしれない。そう思った矢先、後方の離れた所からゴツとぶつかる音がして「…ってぇ」と小さな呻き声が聞こえた。
 Ⅸ籠は足を止めた。これ以上進むのは、刺斬には難しいだろう。この先は、更に崩壊が酷く、瓦礫の丘をいくつか登ることになる。
 ここから、あと5キロメートル進んだ先にある建物が、自分が造られた研究施設だった。
 そこまで行くつもりだったが、行ったところで研究に使っていたであろう機材の残骸しかない。執着するような私物があるわけでもないし、感傷に浸れる思い出があるわけでもない。
 自分の気持ちと刺斬を秤に掛ければ、自ずと刺斬に傾く。
「刺斬」
 振り返って呼ぶと、遠くから「はい」と聞こえた。
 Ⅸ籠は早足に通ってきた道を戻る。刺斬のすぐ前まで来ても、刺斬にはⅨ籠の姿が見えていないらしく、反応が無い。刺斬はいつも付けているヘッドフォンを外していた。その様子から、聴力だけを頼りに足場の悪い道をここまで付いて来たんだと知れた。こんな芸当ができるのは、刺斬だからなんだろうとⅨ籠は思った。
「戻るぞ」
「…っと。ボス、そこに居ます?」
 再び声をかけると、刺斬は驚いて身体を揺らした。
「暗視鏡、持ってこなかったのか?」
「あれ、嫌いなんで」
「そんなんで歩けるのか? 転ぶぞ」
「はははっ。ま、何とかなります」
 刺斬は笑いながら、小型の懐中電灯を取り出した。暗闇に、ぽつりと明かりが灯り、転がっているコンクリート片を照らし出す。それと同時に、刺斬の張っていた気が緩む気配がした。
 急な光の刺激に、Ⅸ籠はぎゅっと目を閉じた。この広大な闇の世界に、その光は今にも呑まれそうで、頼りないものに見える。こんなものでも人は安心するんだなと、何の気なしに思った。
 Ⅸ籠は、そんなもの持っているならもっと早く使えばよかったのにと言おうとしてやめた。きっと、ひとりで来たかったという自分の我侭に、刺斬は気遣ってくれて極力存在を感じさせないようにしていたんだろう。
「散歩はもういいんですか?」
「ん。付き合せて悪かった」
「お気遣いなく」
 刺斬は穏やかな表情で言った。
「ボス、足音立てていましたね。お陰で見失わずにすみました。鎖さんなら、この暗さでも少しは見えるかもしれませんが、俺は全く見えません。お気遣いいただいて感謝です」
「……」
 Ⅸ籠はどう応えればいいのか分からずに、口を噤んだ。刺斬は優しい笑顔のままだった。
 その様子を見流して、Ⅸ籠は歩き始めた。
 戻る道のりは、来るときよりも少しだけ速く進む。出生の地の滅び様を見回しながら、記憶に残っている景色と重ね合わせていた。
 電波塔が根元から折れて大きく傾いているのが遠くに見える。あそこは、兄と行ったことがある。遊び半分で研究員の目を盗んで施設を抜け出して、最後はあそこで捕まった。その時に、兄も自分も全く同じ服装をしていて、研究員は見分けが付かず、自分は暫くの間アーミィと兄の名で呼ばれていた。兄は勘違いしている研究員も困惑する自分のことも、面白がって高みの見物を決め込んでいた。
 Ⅸ籠は、少し後ろを歩く刺斬に顔を向ける。
「刺斬は、オレだって分かる?」
「へ?」
 刺斬が疑問符を浮かべて、目を大きくする。
「オレとあいつのこと、見間違わないか?」
「あいつ? …ああ…」
 刺斬はⅨ籠の言葉足らずの話から、何を言っているのか察したようだった。
「はは、そうスね。目の色しか違いが無いんで、目の色まで変装されたら、難しいかもしれません。こんな暗がりでは、見分けはできないでしょうね。…っと」
 話しながら、刺斬がアスファルトの亀裂に足をとられて傾いた身体のバランスをとる。
「でも俺も鎖さんも、ボスがどういう行動するか分かってるんで、間違うことはないですよ」
「何だそれ」
「クロウさんはクロウさんってことです。人を見分けるのは、見た目だけじゃないんスよ」
「ふうん…」
 Ⅸ籠は、よく分からないまま相槌を打つ。
 そういうものなんだろうかと、半信半疑だった。
 けれど、もやもやとした気持ちは軽くなっていることに気が付いて、自然と微笑んだ。
 
 
 
 
 
終わる

← 作品一覧に戻る