寝癖と本音

ギガジェノ風味のお話だよ。


 珍しく…いや、初めてジェノサイドはギガデリックの部屋へ訪れた。
 最近、部屋に来てくれないものだから、体調でも悪くしたのかと考えてしまう。最悪、訓練中に命を落とした…なんて事も考えられる。何せ、『TOOL』の事だから。
 ギガデリックの部屋の扉前に着き、インターフォンを鳴らしてみる。
 しかし、いくら鳴らしても返事は無く、不注意にも扉のロックはされていなくて。
 そうっと開いたドアの向こうには、床に散乱したお菓子の袋が見えた。お菓子が大好きなのは目をつぶるとしても、食べ過ぎとゴミを片さないのは良く無い。後でホリックを呼んで掃除してもらおう。
 部屋に入ると、ベッドの上に部屋主が静かに眠っていた。いつも連れている目玉型メカに囲まれて、そのひとつを抱き抱えて寝ている。目玉達も普段とは違い、瞼を閉じて停止している。
 ジェノサイドは、とりあえず少年の命が無事であった事に安心して、ふうと安息の溜め息をついた。
 ギョロリ。と、目玉の一つが目を開き、こちらを向いた。続くように他の目玉達も動き出し、ふわりと浮く。その中のひとつが、横になっているギガデリックの背中をポンポンと押した。
「…んー」
 むくりと身体を起こして、ギガデリックは、まだ眠たそうな顔で目を擦る。
「ぷっ」
 ジェノサイドは堪えきれなくて吹き出した。活発で鋭い印象の普段とは違う、その少年の仕草も愉快ではあったが、それ以上に愉快な現象が起きていた。
 ギガデリックの頭には、ぴょんぴょんと二カ所、ちょうどネコか犬の耳の様に、髪に寝癖が付いていた。
「あー? ジェノ兄、何か用?」
 本人は気付く事無く、後ろ頭をボリボリと掻きながら話し掛ける。
「あ…、特に用事は…無いんだけどね~」
 くすくすと笑いが漏れる。その様子に、ギガデリックは片眉を上げた。
「何?」
 口調が少しだけ鋭くなる。
「いや、別に…」
「何だってんだよ。答えろ」
 ギガデリックは目を細くして、荒い口調になった。これはまずい。機嫌を損ねては、どんな仕返しをされるか解らない。
「ギガ君の髪形がね…」
「あー?」
 ギガデリックは自分の頭に両手を添えて髪を撫で付ける。
「昨日、髪乾かさねーで寝ちまったからなー。ボサボサしてる?」
「そのままの方が可愛いよ~」
 髪を直してしまうのが惜しく思えて、思わず本音が出てしまった。
 ピタリと、ギガデリックは止まって、ジェノサイドをじっと見る。
「何で?」
 いつもよりも低い声で問われた。墓穴を掘った気がした。
「何で?」
 もう一度、問われた。しかも、更に声が大きくなって。
「えっ…。そのー、か・髪形がね、猫か犬の耳みたいで…」
「ふーん」
 ギガデリックは嫌に冷静に頷いて、目を閉じた。
「ジェノ兄はさ、それを見て笑ってたんだ?」
「いや…、う~…」
「笑ったよな?」
 ギッと鋭い視線を向けられた。ギガデリックの闇緑色と灰色の瞳が、真紅色に変わった。
 一瞬にして、キィンと空気が張り詰める。
 ふわりふわりと何の気無しに浮いていた目玉達が、途端にピタリと止まりジェノサイドに目線を集中させた。
 場が凍るような緊張感に、ジェノサイドの身体が固まる。
 この少年が有する、機械を操っている特殊能力の波長がそうさせるのか、この少年が怒ると周りの空気が鋭利な刃物の様になる。
 同時に、部屋の蛍光灯が、本来以上の強い光を放って、ちかちかと点滅し始めた。ギガデリックの特種能力は、無意識に機器の限界を超えさせる。
 完全にギガデリックの機嫌を損ねてしまったと確信したジェノサイドは、ここは逃げるべきだと判断した。感情の昂りは激しいけど、それは長続きしない事も知っていた。幸いな事に、ドアまでは1メートルの距離も無い。
 ギガデリックに気付かれないようにドアを開けようと、後ろに手を伸ばす。
 カキュン。
 嫌な音がした。ドアがロックされる音だった。
 気付かれてる…!
 ジェノサイドは、ばっと身体を翻して、ドアのテンキーに、この部屋のロック解除の番号を素早く入力した。
 ERROR。
 その文字が表示されると同時にジェノサイドは機転を効かせ、今度は『TOOL』の全てのドアを開けられる、ごく一部の者しか知らない裏の解除番号を入力した。
 ERROR。
「!?」
 血の気が引いた。
 すでに手後れ。この部屋の全ての機械は、『TOOL』の管理者であるエレクトロの管理下よりも、ギガデリックの支配下の方が強くなっていた。
 恐る恐る、振り返ってみる。
「オレの質問に、答えてねーのに、帰れるわけねーじゃん」
 さっきと変わらない、ベッドの上に座ったままの姿勢で、ギガデリックは言った。もちろん、寝癖もそのままだけど。
「笑ったよな?」
「…え~っと…」
「何しに来たのかと思ったけど、…笑いに来たのかテメェ?」
「ち・違うよー! ギガ君、最近、僕の部屋に来てくれないから! 心配して来たんだよ~! ここまで来るのに、14回も転んじゃったんだから!」
 必死に弁解してみると、ギガデリックは、きょとんとした顔になった。目玉達は攻撃体勢から警戒体勢に戻り、ゆっくりと空気に漂い始める。
「変なの。何でジェノ兄が、心配すんの?」
「だって…いつもは、毎日のように来てくれるでしょ~? 突然、四日も来ないんだもん…てっきり…」
「あ、そ。心配してくれんのは、悪い気はしねーな。ジェノ兄んとこ行かなかったのは、何となく行く気がしなかっただけ。明日は行こうと思ってた」
「そう…」
 ただの気紛れだったのかと知ると、遣る瀬無くて、ジェノサイドは苦笑いを浮かべた。
「…それは分かったけど!」
 ギガデリックは、再び声を荒らげた。まだ何か怒っているらしい。
「ジェノ兄、こっち来い」
 無表情で手招きされて、ジェノサイドは、無言で従った。
「ここ、座れ」
 ベッドの上に指を差され、大人しく指定された場所に座る。
 ギガデリックはベッドから降りて、同じ目線の高さで、顔を近付けてきた。瞳の色は元の闇緑色と灰色に戻っている。殺気ほどの怒りでは無くなったらしい。血を見る事にならずに済んで、ジェノサイドは内心ほっとした。
「心配で来たクセに、笑ったの?」
 それか。
 ジェノサイドは、ギガデリックがまだ怒っている理由を思い出し、僅かに顔を逸らせた。
「じゃ、オレもジェノ兄のこと、笑うから」
 ギガデリックは不敵に笑って、すっと手を上げた。それに反応して目玉のひとつが動き、部屋のどこからか整髪料を持ってきた。
 まさか…。
 予感はそのまま的中で。目玉達は自らのコードを出して器用に、ジェノサイドの髪を掻き上げていく。
 五分もしない内に、ジェノサイドの髪の毛には白銀色の耳が出来た。ギガデリックよりも髪が長い分、立派な耳に出来上がっている。
「んー。可愛いっつーか、キモイな」
 あっさりと酷な発言をして、ギガデリックは笑った。
「よし。そのまま、帰れ」
「えっ!」
「途中で直したりしたら、許さねーかんな」
「…や、ヤダよ~! 誰かに会ったら、ハズカシイよ~!」
「ダメ。早く帰れよ、ニャンサイド!」
 変なあだ名まで付けられた。
 ギガデリックがドアを一瞥すると、ドアが開く。
 誰かが通りかからないとも限らない。ジェノサイドは髪の耳を隠すように頭を抱えた。
「このままじゃ、廊下歩けない~ッ!」
「何? ヒゲも描いて欲しい?」
 一体の目玉の側面に丸く穴が開き、ギガデリックはそこに手を入れると、ペンを出してキャップを開けた。指の隙間から、『油性』の文字が見えた。
「それは、もっとヤダ~!」
「右と左に、三本な」
「待って、待ってぇ~! やめて! もう絶対、寝癖で笑わないから~! 許してー、オネガイ~!」
 わたわたと手をバタつかせてから、手を組んで懇願する。
 ギガデリックは少しの間、無言でいたが、やがて口を開いた。
「何か泣きそーだし、今日は気分いいから、許してやる」
 表情の柔らかい笑顔でギガデリックは言い、再びドアの方を見遣ってドアを閉じさせると、ぴょこりと膝の上に跨がってきた。
 ギガデリックの支配下から離された目玉達が、機能停止してゴトゴトと床に落ちる。それは、ギガデリックが完全に別の事に気が向いた証拠。
「ジェノ兄さ、オレがいなかった時、オレの事考えてたんだ?」
 お互いの鼻先を掠めるように顔を近付けて、ギガデリックが嬉しそうにくくっと笑った。そしてジェノサイドの首に腕を回して抱き着くと、頬に小さく口付けた。
「バーカ。オレが死ぬわけねーよ。オレ、強いじゃん。ヨケーな心配だっての」
「そうだね」
 ジェノサイドは静かに頷いて、ギガデリックの背中手を伸ばして、ぎゅっと抱き締めた。
「ギガ君、大好きだヨ~」
「何だよ、イキナリ」
「ギガ君が素直じゃ無いから、代わりに僕が素直になるの」
「何だそれ。変なの…」
 それから、どちらからというわけでも無く、二人はそっと唇を重ねた。
 
 
 
 
 
終わる


ヘヴン

この話の主人公役が出来るのは士朗しかいないと思った(笑)
ボケ、突っ込み、言いたい事を素直に遠慮無く言い、クルクルと動けるのはコイツしかいない!(褒めてるよ)
お笑い小説を目指して、方向を向いただけで進めて無い(苦笑)


 ふらふらと宛も無く歩き続けて、どれくらいの時が経っただろうか。
「どこなんだ、本当に…」
 押さえきれない不安感から、士朗は呟いた。
 呟いてみたところで、聞いている人なんていないだろうけれど。
 花畑。
 そう、一面に広がる花畑がある。
 地平線の先まで、ずっとずうっと花畑と冴えた蒼い空。
 始めはその色とりどりの鮮やかで神秘的な美しさに心弾んでいたが、もうそれどころではなくなった。
 歩きっぱなしで足が痛いし、ここがどこなのかも解らなくて不安で堪らない。
 いい加減、花を見るのもうんざりしてきた。
 自分がどうしてこんな所にいるのか、それすらも士朗は解らなかった。
 つい昨日までは、見慣れた場所だったのに。
 バイトして、ゲーセンに行って、皆と話して・・・。
 その全てを消し去ってしまったかのよう。
 今までのことが夢だったのだろうか。そんな考えすら浮かんでしまう。
 目に涙が浮かびそうになったきた頃、遠くに、ぽっつりと大樹が見えてきた。
 その樹の下に、微かに動くものがある。
「誰か…いる…?」
 士朗は心無しか早足に歩いた。
 大樹の根元にアンティーク風のテーブルと椅子があり、1人の女性がお茶を嗜んでいる。
 美しく気品のあるその姿。どこぞの貴族の娘かもしれない。
 という事は、ここはその貴族の庭園で、自分はいつの間にか他人の敷地内に侵入してしまったという事か。
 無意識とはいえ勝手に入ってしまったのだから、とにかく謝ってからここの出口を教えてもらおうと思った。
「あの…」
「貴方は…?」
 清水のように繊細で澄んだ声。
 美しい金糸のような髪が、そよ風に馴染んで揺れている。
 自分よりも年下にも見えるが、静かで憂うような眼差しがそうは思わせない。
 聖女…いや、女神を彷佛させる。
 ゾッとするくらい美人だった。
「あ、し…士朗…です…」
「士朗…。私はtraces…」
tracesと名乗った女性は、ふんわりと微笑んだ。
「お座りなさい…」
 そういうと、どこからか肩に乗るくらいの鳥達が集まって一脚の椅子を運んで来た。
「え?」
 鳥だと見ていたが、良く見ると人…小さな天使に見えた。
 幻覚かと思い目を擦っていたら、椅子だけがテーブルの前に残っていた。
 狐に化かされたかのような複雑な気分で、士朗は椅子に座る。
「どうぞ…」
「あ、はい。いただきます…」
 こんな綺麗な人といると、何だか緊張してしまう。
 士朗は遠慮がちにクッキーを摘んで口に入れた。柔らかなメイプルシロップの風味がする。
「よく此処へ…。貴方は何処からいらしたの…?」
「あの、それが…。自分でも良く解らなくて…。気がついたらこの花畑にいて…」
「そう…。迷い人…」
 tracesはゆっくり瞬きをして、じっと見つめてきた。
「貴方が還るべき処へ、送りましょう…」
「ありがとう。こっちこそ、勝手に庭に入っちゃって…すみません」
「いいえ…」
 tracesは立ち上がって、何も無い空間に何かを画くように指先を動かした。
 指の通った跡に白い光の線が遺る。
 見えない壁に、三重円のようなものと記号が円状に並んでいる。どことなく時計盤の様にも見えた。
 その中心にそっと手をかざすと、ぐにゃりと空間が歪んで大きな丸形の穴が空いた。
 空いた穴の先に何色とも言い難い、うねるような空間が広がっている。
「ついていらして…」
 その中へ入ろうとして、tracesは、はたと足を止めた。
 ゆっくりと士朗の方へ振り返る。
「貴方に、この空間が渡れるか…解らない…。精神に傷がついてしまうかもしれない…」
「え?」
 何かよく解らない事を言われて、士朗は眉を寄せた。
 この出口は、何かの痛みを伴うものらしい。
 士朗はそっと指先をその空間に入れてみた。
 その瞬間。
「わッ!」
 脳みそを掻き回されるような不快感に襲われて、反射的に指を引っ込めた。
 目眩がして膝をつく。
「な…何だ…?」
 覚えの無い風景が頭を掠めては消える。様々な意識が駆け抜けて行くようだった。
 頭が酷く痛む。
「やはり…」
 tracesは士朗の前まで来ると、身を屈めて士朗に顔を寄せた。
「全てを知る空間は渡れないのね…」
 士朗の額を白い指でなぞる。
 すると、すうっと頭痛が消えた。
「……」
 士朗は目を閉じ、頭を押さえながら、余韻のように残る不思議な感覚に顔を歪める。
「では、飛んで行くしか…」
 tracesは花の咲くような可憐な声で囁いた。
 ようやく元に戻った士朗は椅子の背もたれを掴んで立ち上がる。
「え、何? 飛ぶ…?」
 士朗はtracesを見上げた。
 が、tracesはいなかった。
 目の前に、金の鎧に身を包んだ黒い翼の鳥の化け物がいる。
「誰だ、あんたぁーッ!?」
 士朗は力の限り叫んで、寄り掛かっていた椅子ごと倒れた。
 がさがさと花を掻くように、慌てて立ち上がる。
 鳥の化け物はいかにも心外そうな顔をする。
「…先程まで其方と話していたではないか」
「は、話してたって…?」
 さっきまで話していたのは綺麗な女性で、こんなRPGの魔王みたいなヤツじゃない。
「だっ…誰…?」
「…tracesだが?」
「嘘だ」
「…偽ってなんとする」
「だって…え? 男?」
「…おかしな奴だな」
「あんたが、おかしいよ!」
 士朗は恐る恐るその鳥の化け物に近寄って、じっと顔を見た。
 雪のような白い肌はまったく同じで、どことなく雰囲気も似ている。
「本当に…tracesさん…?」
「…疑り深い…」
「これって…あの、コスプレってやつ?」
 tracesの周りをぐるりと一回りして、黒い翼をそうっと触ってみた。
 人工羽毛ではなく、本物の羽根の触り心地がする。
 一体、何羽の鳥を使ったんだろう。
 お貴族様は少し変わったものを好むと言うが、随分と手が込んでいる。
「? …何かの呪文か、それは?」
「あはは…。まぁ、呪文かも…」
 士朗は苦笑いを浮かべた。
 成り切る人は、大概こんな事を言うもんだ。
 ちょっと悪戯してみようと思い、長く大きな風切り羽根を引っ張った。
「っ…!」
 ぴくっと身体を揺らせて、tracesが怪訝そうな顔をして士朗を見る。
「…何をする」
「え? あれ? 痛かった!? うそ…。えッ!?」
 士朗は、ずささっと後ずさって身構えた。
「ほ、本物…? あんた、何者だよ!」
 反射的に刀に手を伸ばしたが、何故か今日に限って持っていなくて、空気を握った。
 何で家に忘れてるんだ、こんな時に。
「…物覚えが悪いのか? tracesと名乗ったであろう?」
「名前なんか、聞いて無い!」
 今更になって震えがきた。本物の化け鳥だ。
 身を護る刀も無い。それが恐怖に不安を上乗せした。
「…何を恐れている? 先程まで、平常心ではなかったか」
 それは人間だと思っていたからで。
「騙したな」
「我が騙したと?」
 tracesは困惑したように僅かに眉を寄せた。
「あんたが化け物だと解っていたら、話し掛けなかった!」
 ビシィっとtracesを指を差して、士朗は言った。
「…化け物?」
「だって、そうだろ! その羽根! 白なら天使かもしれないけど、黒いし! 目ェ恐いし!」
 tracesは細い目を俄に大きくして、気落ちしたようにそろそろと椅子に座る。
「…酷な事を言う…」
 目を伏せてティーカップを持つと、静かに紅茶を飲んだ。
 僅かに尾羽根を上下させて、ぱさぱさと翼を揺らしている。
 …もしかして、拗ねてるのか。
 よくよく考えてみれば、人間のようにティータイムを楽しんでいるのだから、もしかしたら人に危害を加えないちょっと変わった動物なのかもしれない。
 人間と会話できるだなんて、珍しい動物じゃないか。オウムや文鳥よりも凄い。
 ちょっと言い過ぎたかもしれないと士朗は思った。
「その…。ごめん…」
「…よい。人間から見れば、皆…其方と同じ思いであろう」
 tracesは静かにカップを置くと立ち上がる。
 さっき椅子を運んで来た鳥たちが集まり、慣れたようにティーセットとテーブル、椅子を運んで去って行く。
 士朗は、今度こそ、じっと見ていた。
 間違い無く、小さな天使たちだった。金の翼をした、小さな妖精のような。
 恐くは無い。その幻想的な光景に見とれていた。
「…恐怖心は、自己保存の為の防衛本能の一部だ。限り有る生命だからこそ…」
 儚く美しい…と、tracesは言った。
「tracesさんは…」
「…何だ?」
「いや…何でもないよ…」
 解らない。
 この人は・・・?
「…恐れは消えたか?」
「え…。あ、ああ…」
「…では、行こうか。長らく其のままでおると、転生が出来なくなるぞ」
「へ?」
 士朗は目を丸くした。
 今、何て言った?
「…其方、己が絶命した事すらも解らなかったのか?」
「俺・・・死んだのか!?」
「…地上の生命がここへ迷ったのだから、それしかあるまい」
「ここ、て…天国?」
 士朗は辺を見回した。天国には花畑があるだとか、川があるだとか聞いた事がある。
 鮮やかな花の絨毯が広がっている。大樹に気を取られて気がつかなかったが、遠くに川らしきものも見えた。
「そのまんますぎだ…!」
 顔を引き攣らせて、士朗は絞るような声を上げた。
「嘘…。俺の人生、短いよ。まだ、やりたい事もいっぱいあるのに・・・」
「…嘆くな。すぐに、その様な気持ちは消える」
「う~ん…」
 士朗は頭を抱えた。
「tracesさん、俺…自分が死んだなんて、納得出来ないよ。自分が何で死んだのかも解らないんだ」
 自分が死んでしまっただなんて、いまいち実感が湧かない。
「納得もしないで生まれ変わっても…そんなの嫌だ」
「…ふむ…」
 tracesは目を閉じる。それもそうかと考えているようだった。
 数秒間目を閉じていたtracesが、ふいに目を開けた。
「…其方の名を呼ぶ声がする。死ぬなと叫んでおるぞ」
「え…。俺には何も…」
 士朗は耳を澄ませてみるが、そよ風に揺れる草花のさらさらとした音しか聞こえない。
「…聞こえぬのか?」
「それって、第六感とかってやつ…か?」
「…情けない…。それでも生物界の最高地に君臨する種か」
「そんな事言われてもなぁ・・・」
 何だか自分が人間代表でお小言を言われているようで、士朗は複雑な気分になった。
「俺には空を飛ぶ翼も無いし海を泳ぐヒレも無い、獲物を狩る牙も無いよ。動物の中で一番優れているとは思えない」
「…ほう。自らが優秀と称する種にしては、珍しい。無垢な意見だ…」
 tracesは目を細めて薄らと笑った。
 その表情はあの女神のようなtracesと酷似していた。
 改めて、この人があの女性なのだと思える。
 どういう原理で性別が変わるのかは解らないけれど。
「…悠長にしてはおれぬ。其方が決めよ」
「え、何…を?」
「…すぐに転生するか、死因の確認をするかだ」
「そっち! どうして死んだのか気になる! >自分で確かめなきゃ、tracesさんがダメって言っても生まれ変わらないからな!」
「…そうか。すぐに発つぞ」
 tracesは翼を羽搏かせて身体を浮かせると、士朗の両肩に両足を乗せた。
 この状態って、まさか…。
「待ってくれよ! 腕! 腕あるんだから、そっちで運んでくれ!」
「…我の腕は其方を持ち上げられる程に丈夫では無い。故に…甘んじて受けよ」
「まんま、鳥が物運ぶみたいじゃないか! その手はティーカップ持つためだけのものかよ!」
「…ぶ、侮辱か、それは…!」
「爪が! 鳥足の爪が痛そうなんだけど!」
「…加減している、案ずるな」
 騒ぐ士朗を制止して、tracesは大きく羽搏いた。
 
 
 
 フレッシュクリームのように真っ白な雲を通り抜けると、見慣れた街の、初めて見る風景が広がっていた。
 飛行機に乗っていたって、空からこんな間近にビルの屋上を見るなんて出来ない。
「すげー!」
 子供のように、きゃっきゃと騒ぎ出す士朗。
 どうしてtracesは教えていないのに、ここだと解ったのか疑問に思ったが、さっき言っていた呼んでいる声を辿っているのかもしれない。
 ふわりと下ろされた場所は、普段に良く通る大通りだった。
 いつもと違うのは、人集りが出来ていること。
 こんなに人がいて、tracesみたいな目立つ人がいるというのに、誰ひとりも目線を向けない。
 違和感を感じながらも、士朗は人集りを潜り抜けて中に入ってみた。
 人集りの中心に、男女がいた。
「士朗、士朗ー! 目を開けてよぅ!」
 泣きじゃくるエリカだった。
 そして、その腕に抱かれている自分がいる。
 ここにいる…自分を見ている自分は・・・?
 とても信じられない光景だった。
「エリカ…」
 声をかけても、見てくれない。
 士朗はそうっとエリカに触れようとした。
 するりと手がエリカの頭に入った。
 びくっとして、手を引く。
「・・・」
 思い出した。
 エリカとのデートだった。
 待ち合わせに遅刻しそうになってたから、慌てて走って。
 走って…それで、車にぶつかった。
「俺…やっぱり死んだのか…」
 現実を目の当たりにして、改めて虚無感を覚えた。
「…士朗」
 tracesが歩み寄ってきて、士朗の横顔に声をかける。
「これ、本当の…現実なんだよ…な?」
「…其方の依り代は…」
「もう、エリカと一緒にいられないんだ…」
「…まだ生きるに十分な…」
「せっかく…エレキとも昔みたいに仲良くなってきたってのに!」
「…我が言を聞け」
「もう少し…もう少しで、穴『colors』がクリア出来るところなのに!!」
「…聞かぬか!」
 tracesが少しだけ声を大きくすると、士朗はようやく我に返った。
「何だよ、tracesさん…」
 不服そうな顔で、士朗はtracesを見る。
「…嘆くには、まだ早い」
 tracesはエリカに抱かれている士朗の身体を指差しす。
「…命を失う程の損傷では無い。軽く当たった程度だ」
「え?」
「…転生の必要は無かろう」
「ほ、本当か!?」
 士朗は、ぱぁっと顔を明るくした。
「生き返られる?」
「…可能だ」
「やったぁ! ありがとう、tracesさん! ホントありがとう!」
 士朗はtracesに抱き着いて、何度もお礼を言った。
「…あまり付くでない…」
 離れない士朗を半ば無理矢理引き剥がす、traces。
 人に触れられるのがあまり好きではないらしく、tracesは士朗との距離を置く。
 だが、士朗はそんな事とは解らずtracesの両手を掴むと、万遍の笑顔でぶんぶんと振った。
「tracesさん、大好き!」
「…早く戻れ」
 複雑な表情をしているtracesの手を放すと、士朗は跳ねるように自分の身体の方に走った。
 が、ぴたりと止まる。
「tracesさん…」
「…今度は何だ」
「・・・どうやって戻るんだ?」
「……」
 tracesは目をぱちぱちする。
「…自ら出たというのに、解らぬのか?」
「うん…。だって俺、出たくて出た訳じゃないんだ」
「…身体に重なればよい」
「そっか、ありがとう!」
 士朗はエリカに抱かれている自分の身体に、ぴったりと合うよう身体を重ねてみた。
 夢から覚める時に似た、がくんと落ちる感覚がして、びくっと飛び起きる。
「し…士朗…!?」
 エリカが驚愕の顔で見詰める。
「エリカ! 俺が見える?」
「??? わ、訳わかんない事、言わないで…っ、ぐすっ…」
 みるみると涙が溢れて、再び泣き出すエリカ。
「心配かけたな…」
「ひっく…、いいよぉ、士朗が…生きててくれた…んだもん…」
「ごめん、エリカ…。ありがとう・・・」
 士朗はエリカを抱き締めた。
 野次馬たちも、おお…だとか、良かったわね…だとか騒いでいた。
「神様のお陰だね」
「神…様…?」
 エリカの言葉が、今までの事を思い出させる。
「tracesさ…」
 振り返ったが、tracesの姿は無かった。
 自分が身体に戻ったから見えなくなってしまったのかもしれない。
 霊的存在。
 ようやく解った。あの人が何だったのか。
 それと同時に、罪悪感が湧いた。
 タメ口を聞いてしまったし、失礼な事をしたような気がする。
 それなのに、わざわざ地上まで戻してくれて…。
 もしtracesに会えなかったら、自分は本当に死んでいただろう。生まれ変わることすらも出来なかったと思う。
 士朗は昇りきった太陽の眩しい空を見上げた。
「ご、ごめんなさい…」
 震える声で謝罪する。
 輝く太陽の光を横切るように飛んで行く黒い影が、一瞬だけ見えたような気がした。
 
 
 
 
 
終わる


anomaly・短編

「TOOL」のグラビティの補足というか、おまけ話。
何故グラビティが重力を自在に操れるのか。それは神様からの授かり物だから。
グラビティがtracesと同じ目をしているのは、traces魔王から重力の魔力を貰ったからだと言い張ってみる話。


「traces、ついておいで」
 何を見つけたのか、Aがtracesの白い手を引いた。
「…何処へだ?」
「地上界」
 tracesの問いに、何ら躊躇いも無く答えた。
 地上界に行く事等、本来ならば無用な行為。
 しかし、常とは異なるその道化の様子に、tracesは些か不安を感じた。
 
 
 気紛れな道化師が空間に穴を開けた先は、人間から見れば広いであろう白い部屋。
 多数の生命の息吹を感じる薄暗い所。
 壁の様に積まれている、幾つもの格子のある箱、その中に生物が入っている。
 しかし、其れらの生物は、何処か不思議な姿であった。
「どう思うカイ?」
 異形の生物を見回していたAが問いかけた。
「…是等の生命をか?」
「そうだヨ」
 tracesはすぐ近くの格子の箱の中の生命に手を翳した。その生命は怯える様子も無く、tracesの掌に見入る。
 生命の細胞がもつ奥底の記憶を読み取り、tracesは細い目を少しだけ見開いた。
「…世の摂理から外された者…」
「御名答」
 Aはくくくと喉を鳴らせた。
 此処が地上界の何処かは解らないが、此の様な生命が存在する事は有り得ない。
「ニンゲンが、面白い遊びを見つけたらしいヨ。これらがその結果」
 複数の種を一つにするすべを、人間は得たというのか。
 tracesは部屋を見回す。異形の者たちは、静かな目線でこちらを見ている。
 覇気の無い、生きることすらも諦めたような瞳。助けを請う事すらもしない。
 何と哀れで不様な事か。
「どう思うカイ?」
 Aが再び問いかけてきた。
「…貴様、何を企んでいる?」
「何も企んではいないヨ。ただ、ニンゲンが隠れてこんなコトをしているのを教えたかっただけだヨ」
「……」
 暫し考えてから、tracesは辺りの生命に目をやり、その中でまだ幼く小さい生命に目を留める。
 他の者より比較的人間に近しい波動と容姿を持つそれに近付き、tracesは己の背に有る黒い翼を広げた。
 深い眠りについている幼い生命の頭に、そっと手を触れる。
「…我は人間が嫌いではない。だが、この禁忌なる行為を我が直に説いた所で、人間は何も変わらぬだろう」
「寧ろ、神の実在に歓喜し、支配しようと愚行に走るかもしれないヨ。ニンゲンは悪食だかラ」
 Aは嘲笑った。tracesも、その見解に賛同であった。この時代の人間は生物界の最高地に立ち、畏伏する事を知らない。
「…此の者には、強い生命力を感じる。地上を支配する地の魔力…。少しだけ分けてやった」
「ほぅ…。地上の者に直接関与したがらないキミが、珍しいネェ」
「…少々過ぎた力だが、人間の禁忌を止めるには十分だ」
「面白いネ」
 ゆっくりとAが笑顔を作る。
「己の生み出した生命に牙を向かれるニンゲンは、さぞかし後悔するだろうヨ」
 先が楽しみだ…と、道化は愉快そうに言った。
 tracesは再び部屋を見回す。
「…是等は、地上の者よりは、我らに近しいのかもしれぬな」
「ここらの生命が夜空の星程集まった所で、ワタシ達には釣り合わないヨ。…情でも湧いたカイ?」
 道化師の笑みでAが顔を覗き込んできた。
「…否」
 tracesは目を瞑って短く言葉を紡ぐ。
 空間に穴を空け、此の場を後にした。
 
 
 
 地の魔力以て地を翔よ。
 生の限り運命に抗い、道を築くが良い。
 
 造られし、ヒトの子よ。
 
 
 
 
 
終わる


 ざぁざぁ…と降り続けて、どれくらいの時が過ぎただろう。
 弱まる気配は全く無く、このまま世界中が海にでもなってしまうのではないだろうかと思えた。
「止まない。いつまで降るんだろう」
 廃屋ビルの18階。
 窓ガラスのない窓から身を乗り出して、空を見上げるエレクトロ。
「今日は、ホリックが遊びに来てくれるはずだったのに」
 雨は数日前から降り始めた。
 それからずっと、昼も夜も休まず降り続けている。
「しばらく降るよ」
 アーミィは、愛用の銃の手入れをしながら、エレクトロの背中に声をかけた。
「今夜、仕事?」
 アーミィの声に振り返って、エレクトロは聞く。アーミィは、透けるような白銀の髪を揺らすように、無表情のまま無言で頷いた。
「仕事前には止むといいね」
 エレクトロは静かな口調でそう言うと、また空を眺めた。
「雨は、神様の涙なんだって」
 囁くような柔らかい声でエレクトロが言う。
「俺は、大気中の蒸気が冷えて水滴になって落ちているんだと思っていた」
「そっちが正解」
 ノートパソコンを起動して、データ入力を始めたアーミィはさらりと答えた。
「そうなのか? 神様の涙だと、本には書いてあった」
「神様なんていないよ」
 冷たくも思えるアーミィの返答だったが、エレクトロにとっては真実をくれる大切な言葉。
「いないのか…」
 少し残念に思う。もし会えたら、命をくれてありがとうとお礼を言いたかった。
 こんな身体で、半分以上は作り物でしかないけれど、生きているのはきっと神様のお陰なんだと信じていた。
 目線を地上に落とす。
 死んだ街並が雨を受けて、僅かに息を吹き返しているようにも見える。
 エレクトロはすぐ隣の窓辺で眠っているグラビティを見てから、アーミィの方へ歩み寄った。
「でも、俺は、神様を見た事があるよ」
「え…?」
 アーミィはキーボードを打つ手を止めずに、怪訝そうな顔でエレクトロを見上げた。
「この目で見た訳じゃないけれど」
「夢…?」
「施設にいた頃。グラビティが生まれて3年と7ヶ月経ったくらいの時、グラビティのいた実験室の監視カメラの映像データで」
「見間違いじゃないの」
「そのデータは施設のデータだから、解除キーが無いと読み出せないけれど、俺の脳の方も少しだけ覚えている」
「エレクの脳じゃ、増々信憑性が無い」
 アーミィは呆れたような笑顔を見せた。
「うーん…あれは神様だと思っていたのになぁ…」
 苦笑いを浮かべて、エレクトロは窓辺に戻る。
 相変わらず強くも弱くも無い雨音が響いている。
「じゃあ、エレク。神様がいたとして、その神様はどうして泣くの?」
「悲しいんだ」
「何故?」
「神様には、名前が無いんだ。だって、同じような存在がないし、神様よりも上にいる存在もないから。誰にも名前を付けてもらえない。誰にも呼んでもらえないと、自分の存在が解らなくなる。それが悲しんだ」
 ゆったりと言葉を綴るエレクトロ。
「…でも、神様はいないんだろう?」
「いないよ」
 アーミィの即答に、エレクトロは頷いた。
「いなくても、いると信じていてもいいのか?」
「いいよ」
「解った」
 エレクトロは嬉しそう笑って、灰色の澱んだ空に向かって大きく手を振った。
「神様。アーミィが仕事に行く前には泣くのをやめてくれ。もし会えたら、俺が名前を考えてあげるから」
 神に対して願う祈りの姿勢とはまったく違うその様子に、アーミィはぷっと噴き出す。
「エレクらしい…」
 聞こえないように小さくアーミィは呟いた。
 
 
 
 
 
終わる


双子

「いらっしゃい。…って、君か」
 店に入ると『ROOTS26』の店長であるセムが笑顔で迎えた。
「よ!」
 軽く片手を挙げて、ダルマも笑顔で答える。
「どうしたんだい? 君が来るだなんて、珍しいね」
「あー。ジャンケンで負けたから、セムの兄貴に伝言しに来たんだ」
「伝言?」
「そ。最近、ゲーセン来て無いだろ? 皆、気にしてたぜ? だから『たまには、顔出せ』だってさ」
「ああ、そうだったのか」
 セムが苦笑いを浮かべる。
「最近、忙しくてね。店の事もあるけど、私事が増えたから」
「ふーん。なんか始めたの?」
「まぁね」
 忙しいと言いながらも、楽しみでもあるような笑みを浮かべる。
 セムはこうして店を開いて、更にはカフェのオーナーまで営んでいる。昼夜問わずに働く。
 それもこれも、大切な妹…リリスのため。
 一人っ子のダルマには、兄弟がいないから、どうしてそんなにも頑張れるのか不思議でならない。
「サイレンのヤツがさ、『病気にでもなったんじゃないデスカ? 心配デース』って、言ってたぜ。心配性だよな」
「ほう…」
 笑顔だったセムの顔が、引きつった。
 ダルマは何かまずい事でも言ったのかと思い、口を開けたまま黙り込む。
「あの髭が、ね…」
「ひ…ヒゲ?」
「いや、こっちの事さ」
 セムは咳払いをして、元の笑顔に戻す。
「そうだね、僕もそろそろ皆の顔が見たいな。でも、まだ一段落しそうもないから、もう少し待っててくれ。皆にも、そう伝えてくれるかい?」
「いいぜ」
 ダルマは軽く伸びをすると、店を出た。
 
 さっぱりと晴れた空が眩しい。ここ数日ぶりの晴天の日だった。
 行き着けのゲームセンターへの近道をしようと、公園に入る。
「あ…?」
 素早くすり抜けるようにすれ違った少年に、一瞬だけ気が引かれた。自分と同い年くらい、同じ身長くらいの少年。
 学校の知り合いかもしれなくて、声をかけようと急いで振り返った。しかし、角を曲がってしまったのか、その姿はもう無かった。
 ザワザワと風が公園の木々を騒がせる。不思議な感覚に襲われて、まるで見知らぬ街にいるような気分になった。
 すれ違った少年の記憶を探るが、心当たりのある思い出が見つからない。
 一人だけの公園で、ダルマは振り返る姿勢のまま虚空を見詰めていた。
「誰…だっけ?」
 聞き慣れて聞こえなくなっていた街の騒音が、煩く感じた。
 
 
 
 数日後、ダルマはまた『ROOTS26』に行く用事ができた。
 ツガルの誕生日が二週間後で、服でも買ってあげようと思っていた。自分が誕生日の時に手作りのケーキをくれたから、そのお返し。
 ツガルが、エリカの服が可愛いと言っていたのをダルマは覚えていた。とはいえ、女の子がどんな服を好むのかなんて解らない。エリカ達の服をデザインしたセムなら、何かアドバイスをくれるかもしれないと思った。
 店の前に来たところで、入れ代わるように店から出て来る客がいた。
 公園で見かけた、あの少年だった。
「あ…、おい!」
 用も無いのに、呼び止めようとした。
 何て話しかければいいのかも解らないのに、声をかけずにはいられなかった。
 けれど、少年には聞こえていなかったらしく、走り去って行く。
 ダルマは、慌てて追いかけた。追いかける必要は無いはずなのに。
 気持ちが昂る。期待感のような、胸騒ぎのような…。
 見知ったような知らない少年は、思ったよりも足が速くて、見失わないようにするのがやっとだった。
 自分は決して足の遅い方ではない。学年の中でも、速い方だ。
 それなのに。
 人込みの中を、まるでツバメが飛ぶかのように、すり抜ける少年がいる。
「どんな、運動神経…してんだよ…」
 息も切れ切れに悪態を付く。
 それでも必死に追いかけた。
 
 どれくらい走っただろうか。喉は乾ききって、声を出すと吐きそうだった。
 気が付けば、街外れ。崩れかけた廃屋ビルが並ぶ、忘れられた地区。
 ダルマは、そこで少年を見失ってしまった。
「っ…」
 目的を失って、我に返る。
 コンクリート壁と廃材のジャングルの中、自分だけが独り。辺りを見回しても、生き物の気配すら無い。
 死んだ街が広がっていた。
「え…っと」
 手の甲で顔の汗を拭いながら乱れた息を整えて、改めて辺りを見回す。
 時刻は夕暮れ。
 薄暗くなった空が、廃虚をより不気味に染めていた。
 これ以上、ここにいても仕方ないと判断したダルマは、足早にこの場を去った。
 
 
 
 翌日、ダルマは早々にセムの店に来ていた。
「なぁ、知ってんだろ?」
「何をだい?」
「だからぁ! 俺と同い年くらいの客。昨日、来てただろ?」
「さぁ…。お客さんは沢山来るから…。最近、オーダーも増えたしね」
 いくら問いただしても、セムは知らないの一点張り。隙あれば話題を変えようとしてくる。
 ダルマは大人の嘘が見抜けない子供ではない。稀に見せる抜群の集中力と200を超えるIQで、相手の僅かな仕種の変化で嘘を判別できる。
「ところで、ダルマ」
 何か企むような笑顔に変えるセム。
「何だよ。話を逸ら…」
「うちのリリスに、ちょっかい出して無いだろうね?」
「…ぇ。…だ、出して…ねーよ」
「僕の目を見て言ってごらん?」
「……うっ…」
 ぴくぴくと口の端を引きつらせ、目線をゆっくりと横に逸らせるダルマ。
 出して無いと言えば嘘。リリスだけに限らず、エリカにセリカ、彩葉にも。抱き着いては、ぶん殴られている。もう毎度の事。
 セムは目を細めて、カウンターから少しだけ身を乗り出す。
「おいたが過ぎるようだが?」
「…今は、そんな話…」
 ダルマはカウンターから少し離れると、むっとしてセムを睨んだ。
「いくら隠しても、無駄だからな!」
「しつこいな、君は」
 セムは呆れた態度で一呼吸すると、何の気無しに出入り口に目をやる。
 すると、一瞬にして血相を変えた。
 ダルマがそれを見逃すはずが無い。
 出入り口に振り返ると、例の少年の姿。
「アーミィ!」
 セムが一喝するように声をかけると、その少年は頷いて走り去った。
「待てよ!」
 ダルマは出入り口に駆け寄り、外を見回したが、少年の姿は消えていた。
「ちくしょう! やっぱり知ってたんじゃねーかよ!」
 カウンターに戻ってセムを睨む。
「君の方こそ、あの子をどこで知った? あの子の何なんだ?」
 大人の険しい顔に怯みそうになりつつも、ダルマは気丈な態度を崩さなかった。
「知らねーよ! 何でもねーよ! だけど・・・」
「だけど?」
「…だけど、知ってる…気がする!」
 根拠は無い。ただ、そう思っただけ。
 遠い昔に会ったのか、夢の中で会ったのか、そんな朧げな存在。
 セムは睨み上げているダルマの顔を暫く見て、表情を和らげた。
「…似ているね」
「え…?」
「あの子は君のように怒鳴ったり、色々と感情を変えたりはしないけれど」
「アー…ミィ?」
「そうだよ。あの子の名前だ」
 なだめるような穏やかな声で、セムが答える。
 そしてカウンターの奥に入って、ティーカップ二つとクッキーの乗ったお皿を持って戻って来た。
「正直な所を言うとね、僕もアーミィについては、名前くらいしか知らないんだ」
 慣れた手付きでポットから紅茶を注ぎ、カップをダルマの前に置く。
「知らない関係なら、何で名前怒鳴っただけで、アイツは解ったように逃げたんだよ」
 ダルマは紅茶を啜るが、馴染みの無いオレンジペコの味に、片眉を上げる。
「状況判断が上手いからね。あの子とは、二ヶ月くらい前に会ったんだ」
 カップに口付けるように、セムが紅茶を一口飲む。
 二ヶ月前。ちょうどセムがゲームセンターに顔を出さなくなった時期と重なる。
「裏路地で、怪我をして蹲っていたんだ。出血が酷いから病院に連れて行こうとしたんだけど、どういう訳か嫌がって言う事を聞いてくれなかった」
「病院、嫌いなのかな」
「そうでは無いんだと思う。傷に問題があったんだ」
「傷?」
「…銃創だったんだよ」
「…!」
「弾丸は自分で取り除いたらしかったけど、傷が塞がらなくて」
「それじゃ、ケーサツざたじゃねーか! 拳銃なんか持った危ねーヤツがいるのに、何で通報しなかったんだよ!」
 ダルマは反射的にカウンターを両手で叩いた。
「僕だって、したかったさ…」
 ゆっくりと視線を伏せて、セムは黙る。
「じゃあ、何で!?」
「・・・」
「何でだよ!」
「…近くに死体があった。・・・殺したんだよ。アーミィが…」
 絞り出すような小さな声で、セムが答えた。
「で…でも、正当防衛ってやつ…だろ?」
「そうなんだろうけど、やり方が手慣れているようだった。素人が見ても解る。首の頸動脈を一切りだ。あれは、かなりの経験者の…プロの殺し方だ」
「嘘…」
「本当さ。事情のある子なんだよ。僕達に予想も出来ないような事情の」
「……」
 ダルマは言葉を失って、大きく息を吐く。頭の中で絡まりそうな思考が気持ち悪かった。
「勘違いはして欲しく無い。アーミィは、本当は良い子なんだ。怪我を手当てしたお礼だと言って、時々店の手伝いをしに来てくれる。…あの子には理解者が必要なんだよ」
「理解…」
 短く呟くと、ダルマは立ち上がった。
「俺、アイツに会ってくる!」
「アーミィに?」
 セムは目を見開く。
「会って、いろいろ聞いてくる」
「あの子が何処にいるのかなんて、僕でも解らないよ?」
「きっと、あそこにいる…」
 忘れられた、死んだ街に。
 あそこで見失ったからじゃない。あそこに居るんだと思えた。理由の無い、確信がある。
「変わった味だったけど、紅茶サンキュー!」
 思い立ったら、すぐ実行。
 ダルマは急いで店を出た。
 
 
 
 街外れの荒んだ地区。昨日来た時よりも明るい時間帯のせいか、陰鬱な雰囲気が柔らかい。
「アーミィー! いるんだろー!」
 ビル郡に向かって大声を出す。
 しかし、何の応答も無い。
 ダルマは崩れかけたビルの中に入ってみた。
 外から見ていたのとは違い、中はもっと酷く崩れていた。一部の天井のコンクリートが落ちていたり、鉄骨がむき出しになっている所もある。
 こんな所で独りきりだと、好奇心が段々と恐怖に変わってくる。
 吹き抜ける風が、不快な音を残して去っていった。
 ダルマは何度も呼び掛けた。余計な事を考えないためにも。
 ゴトリ…
 そう離れていない後ろで音がした。
 反射的に振り返ると、突き当たりの廊下を人陰が曲がって行くのが見えた。
「あ、おい!」
 ダルマは急いで後を追う。
 廊下を曲がると、クセのある茶色の髪を大雑把に纏めたロングコートの少年が階段を上がって行く所だった。
「ちょっと、待ってくれよ!」
 声をかけると、ロングコートの少年は、一瞬動きを止めたが、その直後は階段を駆け上がって行った。
「待てって、言ってるだろ! 聞こえてんだろ!」
 慌てて後を追う。
 階段を四階まで上りきり、通路を走る。
「何で逃げんだよ! 男のクセに逃げんな! それでもタマ付いてんのかよ!」
 ぴたり…とロングコートの少年は足を止める。
「この、クソガキが…。言ってくれるじゃねぇか…!」
 こちらに背を向けたまま、唸るような低い声を出した。
 ダルマは十分に距離をおいて足を止める。
 ロングコートの少年は振り返ると同時に、大声で喚いた。
「潰れろっ!」
 その瞬間、空気が降ってくるような感覚に襲われた。
「なっ…?」
 見えない圧力に堪えられなくなって、ダルマはその場で倒れた。
 空気が重い。いや、自分の身体が重いのか。
「…っぐ」
 内臓すらも潰されそうな力に、息が出来なくなる。
「はっ! 脆いヤツ」
 ロングコートの少年は歩み寄ると、しゃがんで顔を近付ける。
 白眼であるはずの部分が黒くて、血色の瞳に猫のような瞳孔をしていた。
「お前、苦しいか? 苦しいよなぁ?」
 たわい無い悪戯を楽しむような顔をして、からかい半分に言う。異様に発達した犬歯が見え隠れした。
 考えられないけど、この少年が見えない力を操作しているのだとダルマは判断した。
 テレビアニメや漫画に登場するような存在に殺されるのかと思うと、現実なのか夢なのか解らなくて頭がおかしくなりそうだった。
 だけど、この痛みも苦しみも、本物以外のなにものでもない。
 このまま意識を手放したら楽になるかな…と柄にもない事を考えてしまった、その時。
「グラビティ、やめてくれ。本当に、死んでしまう」
 奥の廊下から、紅色の髪を生やした少年が走って来た。
「エレク…」
 ロングコートの少年は、ふっと力を抜く。
 すると、重たかった空気は嘘のように消え去った。
「…だって、このガキがよぅ・・・」
うー、と犬の唸り声に似た声を出す。
「ッ…ケホッ…」
 一気に空気を吸い込んで咽せていると、紅色の髪の少年がひょいと身体を持ち上げて立たせてくれた。
「すまない。グラビティは力の加減を知らないから…」
「あ、うん…」
 事態が飲み込めないが、助かった事は理解できた。
 紅色の髪の少年は鋼鉄製のヘッドギアでも付けているような格好で、絡まりそうなくらい沢山のチューブやらケーブルを身体に巻いていた。
「君は、どうしてここに来た? 迷子なのか?」
 首を傾げて、まじまじとダルマを見詰める。
「ここは、危ない。早く帰った方がいい」
「エンドなんかに見つかったら、一口で食わそうだもんな、こんなチビ」
 ロングコートの少年が、わざとらしく笑う。
「グラビティ、よせ」
 紅色の髪の少年は目線で制すると、再びダルマに視線を合わせた。
「危ないから、途中まで送る」
「違う、迷子じゃない」
 帰り道を催促されて、ダルマは踏みとどまった。
「アーミィを…探しに来たんだ」
「!」
 二人の少年が顔を見合わせる。
「アーミィの知り合い?」
 どうやら二人の少年は知っているらしい。
 ダルマは、ほっとして胸を撫で下ろした。
「俺、セムの友達で、その…アーミィと友達になりたくて」
「セム…人間の大人の? そうだったのか」
 事情を話すと、二人の少年は安心した表情で笑った。
 ロングコートの少年も悪い事をしたとダルマに謝った。
 そして、アーミィは今、用事のために出掛けているから暫く待つように言われた。
 グラビティと名乗ったロングコートの少年は、さっきまでの警戒心が綺麗に無くなったらしく、満遍の笑顔で話し掛けてきた。笑うと自分と同い年に見えた。
 一方、エレクトロと名乗った紅色の髪の少年は、大小様々な機械にケーブルを繋いで何かの作業をしている。よく見れば、そのケーブルは身体と繋がっている。本当に、何をしているのだろう。
 荒廃したこの街で、ずっと生きてきたのだろうか。
 壊れたものばかりで、誰に頼る事も無く。ずっと…。
 自分の知っている世界とは全く違う世界が、こんな近くにあるのに、ダルマは理解できずにいた。
「う…」
 楽し気に会話をしていたグラビティが、突然に顔を顰めた。
「どうしたんだよ?」
「悪い。ちょっと、暴れてくる」
 そう言って、ガラスの無い窓から飛び出して行った。
 確か、ここは四階。
 ダルマは慌てて立ち上がろうとした。が、
「大丈夫」
 と、エレクトロが言ってきた。
「グラビティに、高さは関係ない。落ちてはいない、下りたんだ」
「何? 下りた…?」
「ものが落ちるのは、重力の影響による。ものに重さがあるのも重力の力。地球の自転による遠心力と、質量の積に比例し距離の二乗に反比例する万有引力が合わさったもの。グラビティはその力を操作できる特異能力がある」
「えー…っと、どう言う事…?」
 言われている事を理解できるだけの頭脳はあるが、それがどうして可能なのか解らず、ダルマは眉を寄せた。
「自分の身体を羽根のように軽くして、着地できるという事になる」
「それは解ってるけど、何でできんだよ!?」
 ダルマはエレクトロに詰め寄った。
 エレクトロは少し驚いた顔をして目をぱちぱちする。
「それは、解らない。だけど、超能力の部類に属すると推測される」
「超能力ぅ? SFみてーだな」
「確実に重力をコントロールできれば、熱核反応より強力な重力を起こしてブラックホールを発生させられる。きっと、ゴミ問題も無くなると思う」
「え…ああ、そう?」
 ゴミ問題の話が出て、ダルマは苦笑した。いきなりリアルな話に持って行かれてもピンと来ない。
 こういう風に話が突然ズレると、銀髪ポニーテールの猫好き兄ちゃんを思い出す。
「でさ、何しに行ったの? グラビティ」
「時々、力が暴走するらしい。昔はもっと突発的で、目の前で暴れられて大変だった。危険だから、追わない方がいい」
「ふーん」
 何だか解らないが、ダルマは頷いた。
 重力がどうこう言っていたのを思い出して、空気が重たくなったような怪現象と繋がった。あれは重力の力だったのか。
 自分は貴重な体験をしたのかもしれない。…死ぬかと思ったけど。
「帰って来た」
 膝上のノートパソコンのディスプレイを見ていたエレクトロが、ふいに顔を上げてダルマに微笑む。
 程なくして軽い足音が近付いて来た。
 現れたのは、紛れも無いあの少年。
 前に会ったのと違うのは、赤い大きなヘルメットを被っているのと、薄緑色のマントで身体を覆っている事くらい。
「お帰り」
 エレクトロが言うと、アーミィは頷いてMOディスクを投げ渡した。
「解析? いつまでに?」
「明後日…」
 小さく呟くと、アーミィはダルマの前に来て、座っているダルマを見下ろした。
「アーミィに会いに来た、お客さんだ」
 タイミングを見計らうようにエレクトロが答える。
「俺、ダルマってんだ。セムの友達で、その…どうしても会いたくて」
 ダルマは立ち上がった。
 アーミィは無表情の中に僅かに笑顔を見せて、ダルマの手を引っ張った。
「え…何?」
「二人きりで話がしたいから、ついて来いだって」
 専属の通訳であるかのように、再びエレクトロが言った。
「おう!」
 ダルマはニッと笑って、アーミィに手を引かれるまま、ついて行った。
 
 
 
 アーミィが手を引いて連れて行ったのは、ビルの屋上。
 眩しいくらいの蒼い空が、いつもよりも綺麗に見えた。
 見慣れた街が、遠くに見える。反対の方向には崩れた街。
 騒音と静寂の狭間に自分はいる。
 倒れた石柱に並んで腰掛けると、アーミィは赤いヘルメットを取ると白銀色の髪を風に任せて揺らした。
 ダルマも緑色のフードを外して、栗色の髪を広げた。
 顔を合わせると、アーミィは驚くほど自分に似ていた。
 配色が違うだけの、鏡のように。
 ふっと心に湧くものがあった。
 もしかして。でも、そんなはずは無い…と。
「あの、さ…」
 遠慮がちに声をかける。
 でも、次の言葉が思い付かなくて、そのまま言葉を失った。
 アーミィがゆっくりと目を閉じて、口を開く。
「もう、気付いてるんだろ?」
 その一言に、ダルマは目を伏せて「ああ」とだけ答えた。
 本当は気付いていた。あの公園ですれ違った時から。
 ただ、その真実に迷っていただけ。
 言いたい事が沢山あるのに、その言葉を見つけられなくて。
 聞きたい事が沢山あるのに、その言葉を待つしか出来なくて。
 こうして会えたのに、割り切れない自分がいる。
「僕は、気付いて欲しくはなかったよ」
「え、何でだよ?」
「だって、僕が兄弟だって解ったら、『家に帰ろう』って言うんだろ?」
「当たり前じゃねーか。帰りたくないのかよ?」
「帰らないよ」
 思ったより冷たく言われて、ダルマは少しばかり、むっとした。
「兄弟が一緒にいちゃ、ダメなのか? そんなことねーだろ?」
「・・・今更…普通の暮らしなんて、出来ない」
「……」
 冷たいくらい冷静な言葉に、ダルマはそれ以上言い返せなくて黙った。
 『普通の暮らし』という言葉に、セムから聞いたあの話を思い出す。
 今までに、どんな所で、どれくらいの人を殺したのだろう…という考えが頭に浮かんだ。
 感慨は無い。ただ、少しだけ心に痛むものがあった。
「お前がさ、今までどんな生活をしていたのかなんて、どうでもいいよ」
 ダルマは遠くを見詰めながら呟く。
「ただ、さ。兄弟がいたことが嬉しいんだ」
「そう…だね。…会えるとは思わなかった…」
 アーミィはゆっくり頷いた。
 空が赤く染まり始めるまで、二人は一言ひとこと、短い会話を繰り返した。
 お互いの生活環境や生立ちの話題には触れないような会話だった。
 今は、それでいいと思えた。
「また、会えるよな?」
 帰り際に、ダルマは途中まで送ってくれたアーミィに言う。
 アーミィは何も言わなかったけれど、微かに笑顔で見送ってくれた。
 
 
 
 あの日から数日が過ぎて、偶然にもツガルとのデートコースで街外れの地区を通りかかった。
 双児の兄弟が住む地区に。
「どうしたの? ダルマくん」
 ダルマに買って貰った服を着て、上機嫌のツガルが顔を覗き込んできた。
「ん…ああ、何でもねーよ」
 ダルマは笑い返す。
 あれから、何かと用事ができてしまって、ここに来れなかった。
 だから、明日こそは。
 そう思っていた。
 だけど・・・。
「あ! ここ、テーマパークになるのね」
 忘れられたはずの街は、完全に封鎖され、大きなテーマパークの工事が始まっていた。
 轟音と共に砕かれていくビル。
 信じられなくて、目を見開いた。だって、ここには住人がいるのに。
「もう…会えねーなんて事、ないよな…?」
 無意識に出た言葉。
「え? なぁに?」
 ツガルが首を傾げる。
「へへっ、ヒミツ!」
 ダルマは舌を出して、ツガルの鼻先を指先でつついた。
「あっ! 何よ、もう!」
 ぷうとほっぺを膨らませるツガル。
「わりぃわりぃ。映画観に行こうぜ。ツガルが見たがってた映画、この先の映画館でやってんだ」
「本当? 早く行こ!」
 ツガルはくるりと回って小走りに先へ進み、「早くー!」と手を挙げた。
 ダルマはほんの一瞬だけアーミィの気配を感じたような気がして振り返った。
 けれど…。
 目に入ったのは、崩れかけたビルを取り壊している風景だけだった。
 
 
 
 
 
終わる


・‥… 暦 …‥・

 限られた存在だけが知る空間。
 あの世だとか、冥界だとか、神の住まう国だとか言われている場所。
 足下の遥か下に広がる、暗闇に包まれた地上を見詰めている存在がいる。
 大きな漆黒の翼を生やした、男。
 世俗との関わりの無い彼に、名前は無い。
 けれど、その存在を知っている者は、彼をtracesと呼ぶ。
 tracesは夜闇の地上を見下ろしながら、翼を広げて軽く羽ばたきをした。
 空間を歪める羽ばたき。
 ふと、何かの気配を感じて、tracesはゆっくりと後ろに振り返った。
 そこには、片手で掴めるくらいの小さな白い兎のヌイグルミが立っていた。
 白兎のヌイグルミは生き物のように動き始める。左右に大きく身体を揺らして歩き、その歩いた軌跡にはポンポンと音を立ててチューリップの花が咲く。
「寂シイ コノ場所ニ オ花ヲ 咲カセテ アゲルヨ」
 壊れたゼンマイのような掠れた声で、そのヌイグルミが言った。
 こんな奇妙な事をする者は、ひとりしかいない。
「Aか」
 と、tracesは言った。
「御機嫌よう、traces…」
 何の前触れも無く声がして再び振り返ると、どこか狂気じみた雰囲気の道化師が立っていた。
 ヤギに似た大きな耳をピクッと動かして、口の端を上げて笑う。
 この道化師のような存在もtracesと同じく名は無い。
 存在を知る者だけが、Aと呼んでいる。
「何をしに来た?」
 tracesの黒目に赤い瞳が道化師の姿を捕らえる。
「そろそろ夜明けの時間だと思いましてネ」
 Aはtracesの目線も気にせずに、足下に広がる地上を見下ろした。
「ワタシは、この世界が永遠の闇に凍り付こうが、永久の光に燃やし尽くされようが、関係ナイ。ケレド…」
 バシィ、と黒い翼の羽音が響く。
「世界の昼夜を管理するのは、我の役目だ。軽んじて語るな道化…!」
 切れ長の目を更に細くして、tracesはAを睨んだ。
 しかし、tracesの牽制にもAはまばたき一つせずに、ニィと笑みを浮かべた。
「クク…。いや、失礼。仕事熱心なのだネェ」
 視線をtracesに向ける。
「闇と光が入れ代わる…。ワタシはその瞬間が好きダヨ」
 Aはゆっくりと近付き、tracesの周りを回るように歩き始めた。
「輝きでもなく、陰りでもない、その瞬間がネ」
 ふいに鈍い痛覚を感じて、tracesはぎゅっと目を閉じた。
「痛かったカイ?」
 tracesの前に来て、覗き込むようにして顔を近付けるA。
 その手には、黒い一枚の羽根。tracesの翼から引き抜いたものだった。
「痛かったのなラ、失礼」
 ぱたぱたと黒羽を振るA。とても詫びている態度には見えない。
「…貴様…」
「いつも怒ってばかり…。笑ったらどうダイ?」
 Aはtracesの黒羽を両手で挟んでから、ゆっくりと両手を開く。不思議な事に、黒い羽根は黒い兎のヌイグルミに変わっていた。
 黒兎のヌイグルミは先程に現れた白い兎のヌイグルミと同じように動きだし、Aの手から下りると、可愛らしい動きでtracesの周りをぴょんぴょんと跳ねて回った。
 どこからか再び白兎のヌイグルミが現れて、黒兎のヌイグルミとワルツを踊り始める。
 いつのいつの間にか、おもちゃの楽器を持った犬や猫、カエルなどのヌイグルミも現れていて、優雅な音楽を奏でていた。
 tracesは視界の隅でそれを見ていたが、すぐにAに顔を向けて睨んだ。
「目障りだ。我の邪魔をする気ならば去れ」
「おや。御気に召さないようデ…」
 軽く肩を竦めて、Aはパチンと指を鳴らす。ヌイグルミ達は、ぶくぶくと血色の泡になって崩れ溶けていった。
「楽しませてあげようと思ったのにネェ」
「必要無い」
「ココはつまらない場所ダ。たまには地上に下りたらどうダイ?」
「……」
 tracesは少しだけ考え込んだが、首を振った。
「アナタのお陰で、凍えることも焼かれることもなく生きていける存在がいるのダヨ。そうとは知らずに生きてイル…」
 実に愚かしく愛しい。と、Aは言った。
 tracesはAが時折、地上に降りている事を知っていた。しかし、自分達と地上の生命では、存在の次元が違うのだから、干渉する事が善しとは思えない。
「ほんの少しだけ手を下せば、『奇跡』だとか言っテ、喜々とし恐怖スル。喜ばせるのモ、怖がらせるのモ、楽しくてしかたナイ…」
「地上に関与するのは愚行としか思えぬな」
「他の生物との距離を縮める事デ、知る事がアル。考え方も変わるヨ」
「…何が言いたい?」
「いえ、別に」
 Aは意味深気に笑って目を逸らせた。
「さて、もう時間ダヨ。朝にならナイと、地上のモノが煩く騒ぎ出すヨ。特に小聡いニンゲンはネ」
「ふん」
 tracesはAから少し離れると、目を閉じて翼を広げる。指先で空間に文字のような記号を描き、その文字の羅列は輪になってtracesを囲んだ。
 大きく広げれられた漆黒の翼は羽根を散らす。舞い落ちる羽根は黒い閃光を放って消えていった。
 光の粒子が集まって、空に漂う羽衣を形成する。tracesは凛とした女神に姿を変えた。
 そのわずか数秒にも満たない間、Aはまばたきせずに、ずっと見入っていた。tracesの変身が終わると、足下の遥か下の世界が柔らかな光に照らされ始める。
「美しい…」
 Aは、わざとらしく笑む。
 そしてtracesの手を取ると、手の甲にそっと口付けをした。
「私に触れるな、道化」
 透き通るような、けれど芯の強い声でtracesは言い、Aの手を振り払った。
「綺麗な花には棘が有る。…ニンゲンは上手い事を言うネェ」
 Aはクククと喉を鳴らす。
 そして左腕を大袈裟な仕種で広げて、深く頭を下げた。
「では、サヨウナラ、光の姫君。また会いに来るヨ…」
 言い終わるか終わらないかの内にぐにゃりと空間が渦巻き、Aの姿は消えていた。
 tracesは深く息を吐くと、ゆっくりと空間の中を歩き始める。
 足下には広がる地上。
 数えきれない程の生命が宿る。弱く、脆く、儚い生命。
 尊ぶ訳でも無く、哀れむ訳でも無く、tracesは静かに見詰めた。
 
 
 
 
 
終わる


誕生日

「出掛けてくるよ」
 短く小さく、言い捨てるようにだけ言って、アーミィは立ち上がった。
「ドコにだ?」
 窓の縁で寝そべっていたグラビティが頭を起こす。
「仕事は、明日だろう?」
 それに遅れるように、エレクトロが配線コードの整理している手を止めた。
「どこか」
 わざと意地悪く答えないで、アーミィは二人に背を向けた。
 
 
数時間後。
 
「帰って来た…」
 アーミィの発信機を探知して、エレクトロが声を出す。
 暫くして、足音が近付いて来た。
 しかし、いつもの軽く素早い足音では無く、ゆっくりとしたものだった。
 ただいまの声と共に、アーミィが現れる。
 三つの箱を重ねて、大事そうに抱えていた。
「買い物かよ」
 グラビティが重そうに持っているアーミィから、ひょいと箱を持ち上げて机に置いた。
「静かに置いてよ」
 箱を気にして、アーミィはグラビティの脇腹を肘で突く。
「そんなに荒く置いてねぇよ」
 口を尖らせるグラビティを横目で一瞥して、アーミィは重なっている箱を、机の上に並べて置いた。
 その箱のひとつを開ける。
 出て来たのは、チョコレートケーキだった。
「ケーキ? どうしたんだい、それ?」
 エレクトロが目をぱちぱちしながら問う。
 アーミィは、その問いには答えず希薄な表情で笑った。
「エレクはこれ」
 もう一つの箱を開ける。
 中にあったのは、果物の沢山乗ったフルーツタルト。
「フルーツ、好きだから」
「わぁ、綺麗だね。この赤いの…さくらんぼ、大好きだ」
 嬉しそうににサクランボを指差すエレクトロ。
「グラビティはこれ」
 最後の箱を開けると、出て来たのは丸いスフレチーズケーキ。
「あんまり、甘く無いのだって」
「ん…」
 自分の肌の色に似たケーキをまじまじと見るグラビティ。
 言葉には出さないが、喜びの表情の浮かんだ顔をする。
「今日、誕生日」
 エレクトロとグラビティにフォークを手渡して、アーミィは言った。
「…え?」
「はぁ? 誰の誕生日だよ」
「僕らの、誕生日」
「俺は、いつ造られたかの正確なデータは無いが…」
「オレも、誕生日なんて知らねぇぞ」
 理解不能の表情を浮かべる二人。
「僕が決めた」
 と、はっきりと大きな声の答え。アーミィにしては珍しい声だった。
「施設から逃げ出した日だよ。僕らが自由になった日」
 目を閉じて、いつもの小さく淡々とした声に戻す。
「自分が、自分として生きられるようになれた日だから…」
 言い聞かせるように、ゆっくりとアーミィが言った。
 エレクトロとグラビティは顔を合わせた後、アーミィを見て笑顔になる。
「そうだった」
「ああ、大事な日だな」
 
 
 
その日の夜。
三人は微妙な顔つきでケーキとにらめっこをしていた。
それぞれの目の前には食べきれて無いケーキ。
8号のケーキは、数人で食べるものだとは知らず、胃もたれと格闘していた。
 
 
 
 
 
終わる